馬場正平ってどんな投手だった? 殿堂入り解説者がドジャース修業を提言していた…「誰も知らなかったジャイアント馬場」著者に聞く
2/20(土) 10:00
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スポーツ報知
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巨人の投手だったジャイアント馬場さんの豪快な投球フォーム
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 「週刊プロレス」の全日本担当として、ジャイアント馬場さんを至近距離で取材したスポーツライターの市瀬英俊さん(57)が、「誰も知らなかったジャイアント馬場」(朝日新聞出版・税抜き2000円)を刊行した。月日は流れ、馬場正平が巨人の投手だったことを知らない人も増えた。そこで当時の資料を調べまくった市瀬さんに聞いてみた。「馬場さんって、どんなピッチャーだったの?」(加藤弘士)

 市瀬さんは馬場さんの単なる取材者ではなかった。88年からは全日本プロレス社長である馬場さんの依頼により、興行の対戦カードについてアイデアを提供するなど、参謀役も務めた。生前の馬場さんは巨人の一員という過去を、どう捉えていたのだろうか。

 「そりゃあ、もう誇りですよ。巨人の話題になるといつもニコニコ。『他の球団は移動の時もラフな服装だけど、巨人はみんなきちんとした格好だった』という話を、誇らしげにしていました」

 新潟・三条での中学時代、軟式野球に打ち込んだ馬場さんは地元の三条実に進学し、硬式野球部入部を志す。入学時の身長は190センチ(レスラー時代は公称209センチ)、足のサイズは31・2センチ。しかし合うスパイクがない。傷心の馬場さんは美術部で油絵に打ち込むが、野球部長の計らいで高2の春、特注のスパイクを得て入部できた。その秋、巨人からスカウトされ、中退と入団を決断。硬球を握って数か月でプロ入りしたことになる。

 「今、世間にある巨人時代のイメージは『2軍の客寄せパンダ』『もっさりしていて、球速もそれほどではなかった』というものでしょう。馬場さん自身は『140キロは出ていた』と言っていましたが、あらためて調べてみると、まるっきり箸にも棒にもかからない選手、というわけではなかったんです」

 馬場さんのプロ初先発は3年目の57年10月23日、中日とのダブルヘッダー第1試合(後楽園)。巨人はすでに優勝を決めていた。中日・杉下茂が通算200勝をマークした試合でもある。馬場さんは初回に失点も、5回5安打1失点、四死球0。敗戦投手になった。

 市瀬さんは国会図書館で当時の報知新聞を熟読。大東京などの監督を務め、名解説者として後に野球殿堂入りした小西得郎氏の評論に目がくぎ付けになった。

 「馬場は巨人軍のホープであるばかりではなく、日本のプロ野球を背負って立つ未来の大器かもしれない。私にこんな夢がある。それは馬場をアメリカへやってみることだ。ドジャースにでも馬場の身柄を当分預けっぱなしにしてみるんだ。3年間ぐらい修業に出したらどんなもんだろう」

 数年後、レスラーに転向した馬場さんが米国で3大世界王座に挑戦するなど、トップ級に上り詰めたことを踏まえると、この考察は興味深い。

 「この記事を見つけた時には興奮しましたよ。小西さんの発想もすごいし、規格外の可能性を感じていたことが分かる。夢が膨らみますよね」

 新事実もあった。その年の巨人の日本シリーズ登録選手25人中、投手は9人。そこには馬場正平の名があった。後に右肘痛を理由に野手と交代されてしまうのだが―。

 「たとえ敗戦処理だったとしても日本シリーズで登板する可能性はあった。それなりの投手だった証拠です」

 今年のキャンプ報道では身長200センチを誇る巨人のドラ5ルーキー・秋広が紙面をにぎわせている。

 「今の巨人は秋広選手の体の成長にも配慮しながら、しっかり鍛えようとしている。馬場さんも大谷投手や佐々木朗希投手のように大事に育てられたら、違う人生があったとも思います」

 馬場さんは巨人在籍5年間で通算3登板、0勝1敗、防御率1・29。59年限りで戦力外となり、大洋のキャンプにテスト生で参加したが、風呂場で転倒したけががもとで球界を去った。同書では遠距離恋愛していた元子夫人との手紙のやりとりも多数紹介され、「人間・馬場正平」の真実に触れることができる。以下ソース参照