監督と衝突して2軍で干され、一度は現役引退を覚悟しながら、新天地で不死鳥のように復活を遂げたのが、山崎武司だ。

 2003年に平井正史との交換トレードで中日からオリックスに移籍した山崎は翌04年、伊原春樹監督と起用法をめぐって対立する。

 自著「さらば、プロ野球 ジャイアンの27年」(宝島社)によれば、伊原監督はプライベートでは思いやりがあり、関東遠征の出発前、山崎が名古屋の自宅で家族とゆっくり過ごせるよう、本拠地での練習を早く切り上げて帰ってもいいと配慮してくれたという。

 だが、コーチ時代に“鬼軍曹”の異名をとった伊原監督は、試合では非情采配に徹した。

 同年4月28日、故郷の人々に元気な姿を見せるはずだったナゴヤドームの西武戦で、山崎は思いもよらぬベンチスタート。前日の第1戦は7番DHで出場したが、この日は前日の試合で負傷した谷佳知がDHに回ったため、割りを食ったのだ。多くの知人を球場に呼んでいた山崎は、すっかり面目を失ってしまった。

 不満をあらわにしていると、伊原監督は「そんな状態で、野球なんてできないだろう」と言った。山崎は売り言葉に買い言葉で「できませんねえ!」と答え、そのまま帰ったが、これが職場放棄と見なされ、翌日、登録を抹消された。

 その後、伊原監督はシーズン最終戦の近鉄戦を前に「今までのことは水に流して、みんなと一緒にやろう」と手を差し伸べてきたが、すでに「野球を辞めよう」と決意していた山崎は、素直な気持ちになれなかった。 

 戦力外通告を受け、このまま現役引退と思われた矢先、近鉄、オリックスの合併に端を発した球界再編問題が、運命を大きく変える。

 一人でも多く即戦力を必要としていた新規参入の楽天から声がかかり、「野球はもう、結構です」と一度は断ったものの、周囲に説得されて、現役続行。移籍2年目の06年に就任した野村克也監督の指導で4番打者として見事復活を遂げ、07年には39歳にして本塁打王と打点王の二冠に輝いた。

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