菅田将暉、あいみょん、石崎ひゅーい等を手がける超人気アレンジャー、トオミヨウ。須藤晃を父に持つ知られざる音楽人生を語る【インタビュー連載・匠の人】
2021.1.9 SPICE 取材・文=森朋之
https://spice.eplus.jp/articles/280856
トオミヨウ
https://spice.eplus.jp/images/xUya22kEAxkvoRTjnfJpFt4AkjeNM59ayikKOPuHDehjBpeoMPaWic4WKHlahoPI.jpg


その道のプロフェッショナルへのインタビュー連載「匠の人」。今回登場するのは、アレンジャー、プロデューサーとして、数多くのヒット曲に関わっているトオミヨウだ。
尾崎豊、浜田省吾などのプロデューサーとして知られる須藤晃を父に持ち、2007年から編曲家、ライブサポートなどの仕事に携わってきたトオミヨウ。菅田将暉、あいみょん、石崎ひゅーい、土岐麻子、槇原敬之、玉置浩二などのアレンジ、プロデュースを手掛け、稀代のヒットメイカーとして知られている。「歌う人に対する憧れがある」という彼に、独創的なアレンジワーク、プロデュースのスタイルについて語ってもらった。

――トオミヨウさんの父親は、尾崎豊さん、浜田省吾さんなどの作品を手がけてきた須藤晃さん。やはり幼少期から音楽がそばにあったんでしょうか?

小学校の頃から、父親が持って帰ってくるCDをよく聴いてましたね。今考えると父親が務めていたソニーのアーティストばっかりなんですけど、ユニコーンとか、それこそ尾崎豊さんとか。あとは母親が好きな佐野元春さんの曲を車で聴いたり。自分でCDを買うようになってからは、B’z、Mr.Childrenとか。僕らの世代がみんな聴いていたバンドですね。

――マニアックな音楽ファンではなかった?

その頃はマニアックなものにはいかなかったですね。周りには古い音楽やハードロックを聴いてる人もいたけど、僕は全然好きじゃなくて。ポップスばっかり聴いていたし、それが今の自分が作っているものにも影響している気はしますね。どこかいなたいものが好きというか。高校生になると、レッチリ、レニー・クラヴィッツ、レディオヘッド、ニルヴァーナとかを聴き始めて、あまりJ-POPを聴かない時期もありましたね。特にレディオヘッドが好きで。作品のたびに音楽性が変わりますけど、その度にすごく影響を受けてました。

――10代の頃から、音楽の道に進もうと思っていたんですか?

小さい頃はあんまり考えてなかったですね。音楽はずっと好きだったし、高校生の頃は「ミュージシャンという職業はカッコいいな」と思ったりしたけど、全然違うことを仕事にするんだろうなと。祖父が医者で、後継ぎがいないって言ってたから、「お医者さんになろうかな」とか。でも気づけば文系だったから、諦めましたけど(笑)。

――須藤さんの仕事のことはどう思っていたんですか?

小さいときに何度かスタジオに連れていってもらったことがあるんですけど、「みんなで曲を作ってるんだな」くらいで、具体的に何をやってるのかわかってなくて。

――では、音楽の仕事をはじめたきっかけは?

大学生の頃に自分で曲を作り始めたんですよね。当時父親の会社に作業できる場所があって、ときどき使わせてもらっていて。その流れで父親の仕事を手伝うことがあって、徐々に他からも頼まれるようになったんだと思います。ただ、「手伝ってるだけではダメだな」っと思っていたし、父親にもそう言われていたので、作品は作り続けていたんです。でも、それで売れようということではなく、スキルを磨くという意味で。


■アーティストのやりたいことを具現化するのが自分の役割だと思ってる

――2007年頃からはアレンジャー、ライブサポートなどの活動が本格化します。槇原敬之さんのアルバム『悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。』(2007年)のストリングス・アレンジを担当、ツアーにも参加するなど、いきなり大きな仕事ですよね。

槇原さんとの出会いのきっかけは、尾崎豊さんのトリビュートアルバム(『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』)ですね。アルバム全体を父親がプロデュースしていて、尾崎裕哉くんと僕に「息子同士で一緒にやりなよ」と声がかかって。
裕哉くんは当時14歳くらいで、ユニット(“Crouching Boys”)を組んで1曲入れさせてもらったんです。曲は「15の夜」なんですけど、息子同士で普通にカバーしてもカッコ悪いと思って、全然違う曲にしたんですよ。