斎藤佑樹の輝きはどこで失われたのか

 広島・崇徳高校の野球部監督を務める應武篤良(おうたけ・あつよし、62)のもとに、北海道日本ハムの斎藤佑樹(32)から次のようなLINEメッセージが届いたのは11月13日のことだった。

〈(プロ入りして)10年が過ぎました。報道にあるように、ヒジを完璧に戻して来年頑張ります〉

 早稲田実業から早稲田大学に進学した斎藤を、4年間同大の監督として指導した應武は語る。

「律儀な男でね。節目には必ず連絡をよこします。しかし、ここ数年は連絡がある度に、(戦力外の報告ではないかと)ドキッとしますね」

田中がベンツなら、斎藤は軽自動車だった
 プロ入りからの10年間で15勝26敗の成績しか残せず、今季、右ヒジの痛みに悩まされたという斎藤はとうとう一軍登板がなかった。“血の入れ替え”を積極的に行い、大量採用・大量解雇が主流の現在のプロ野球界にあって、斎藤はいつクビとなってもおかしくない立場に違いなかった。だが、手負いの斎藤の現役続行は決定的。しかも来季は治療に専念するという。リハビリ期間を考えれば、少なくとも2年間はクビがつながったかたちだ。

 斎藤のケガの詳細は、右ヒジ靱帯の損傷とも、断裂ともいわれる。当然、應武には報告されているのではないだろうか。

「たとえ靱帯断裂であっても、トミー・ジョン手術(ヒジの靱帯再建手術)のようにヒジにメスを入れる選択肢以外に、様々な治療法がある。また復活してくれることでしょう」(取材後の11月23日、日本ハムの吉村浩GMは斎藤が手術をせず、保存療法で復帰を目指すことを明言した)

 引き分け再試合までもつれた2006年夏の駒大苫小牧との甲子園決勝で、“ハンカチ王子”と呼ばれた斎藤は全国制覇を遂げた。早稲田大に進学すると、1年春から六大学野球の開幕ゲーム(東大戦)に登板し、勝利。リーグ優勝、全日本大学選手権でも優勝を遂げ、秋もリーグ制覇。順風満帆の野球人生を送っていた。

 ところが、高校時代から斎藤を追い続けていた私の目に異変が映ったのは大学3年生だった2009年だ。高校時代は最速149キロだった斎藤の球速が130キロ台にとどまり、変化球も曲がりが早く簡単に見極められてしまう。主将となった4年の秋は、東大戦の敗戦投手となり、慶応大との優勝決定戦までもつれたリーグ戦を制したものの、球威も打者の狙いの裏をかくような投球術も斎藤からは消えていた。

3年時の異変が、ハンカチフィーバーの終焉、そしてプロ入り後10年間の野球人生に影を落とす要因となっているのではないかというのが私の見立てだ。それを應武に尋ねることが広島に向かった理由であった。

「今だから言える話もある。甲子園でハンカチ王子と呼ばれ出した頃は、“あの身体でプロはないよな”が正直な印象だった。ライバルとされる田中将大(32、ヤンキースから今オフFA)と比べれば、ベンツと軽自動車ぐらい、積んでいるエンジンに差があった。早稲田の学士をとって社会に出ることが彼に相応しい進路だと私は思っていました」

ステップ幅が「6歩半から7歩」へ
 2007年1月に初めて斎藤が大学の練習に参加した時、200人の報道陣が早大の安部球場に集結し、一挙手一投足を追った。應武は戸惑った。

「カメラのクルーだけじゃなく、腕を組んで練習を見つめるだけの部長クラスの人まで斎藤見たさにやってきていた。開幕戦の東大戦に起用したのは、東大戦ぐらいは抑えるだろうと思ったから。いわゆる顔見せだった。明治や法政、慶応が相手なら、木っ端微塵にやられるだろうと思っていました。ところが、けが人が出たチーム状況もあり、その後も斎藤を使わざるを得なかった」

https://news.yahoo.co.jp/articles/9bb9751b1a362b07e2e49041f460df9faec9272e
11/29(日) 7:05配信