1978年夏の甲子園大会でPL学園高(大阪)を監督として初優勝に導いた山本泰氏(やまもと・やすし、旧姓・鶴岡=つるおか)が11日午前1時半、腹部大動脈りゅう破裂のため東京・府中市の病院で死去した。75歳。9日、少年野球の指導中にグラウンドで倒れた。葬儀・告別式は近親者のみによる家族葬を予定。「逆転のPL」と呼ばれた当時のエースで元広島の西田真二氏(60)=当時真次、セガサミー監督=や正捕手の木戸克彦氏(59)=阪神球団本部部長=ら教え子たちが恩師をしのんだ。

特別な夏に、名将が逝った。「逆転のPL」として1978年夏の甲子園で初優勝に導いた鶴岡氏は次代を担う野球少年たちへ、指導をしている際にグラウンドで倒れ、天国へと旅立った。

PL学園の監督を退任後、近鉄や米大リーグ、マリナーズのスカウトなどを経て、現在は少年野球の指導にあたっていた。南海監督でプロ野球最多、通算1773勝を挙げた故鶴岡一人氏の長男。勝負の厳しさを誰よりも知る。

PL学園で育てられた教え子には、この日の昼ごろ、鶴岡氏の訃報が入った。78年夏のエースで、今は社会人セガサミーの監督を務める西田氏は悲しみにくれ、忘れられない涙を回想した。

「野球の基本をたたき込まれました。親分(元南海監督の一人氏)の息子さんで、顔も怖かった。今、話していても、あの校歌が流れるときの、監督の泣いている顔がよみがえってきます」

準決勝は中京に逆転勝ち。高知商との決勝戦も0−2の九回に劇的なサヨナラ勝利で、初めて頂点に立った。♪あぁ、PL−。灼熱(しゃくねつ)の甲子園で最後の校歌が流れる。苦しかった練習の日々が走馬燈のように蘇り、西田氏はかすむ視界の中、チラッとベンチ前を見た。指揮官のほおに涙が伝っていた。

主将で捕手だった木戸氏は守備面を徹底的に鍛え込まれた。「10−0で勝っていても、1点を取られたらポール間走を何十往復もやらされました」。鶴岡氏の教えは「点をやるな」−。どれだけ野手が打てなくても無失点なら負けない。「2年前に西田と一緒に監督に電話して『甲子園の優勝から40年経ちましたね。ありがとうございます。おかげで今の私たちがあります』と話をしたのが最後の会話でした」。何度も家に呼ばれて、怒鳴られた。鶴岡氏が“親”でいてくれたからこそ、過酷な練習にも耐えられた。

鶴岡監督が常勝軍団の礎を作り、バトンタッチを受けた中村順司監督の下、桑田、清原のKKコンビが黄金時代を築いた。そのPL学園野球部は2016年を最後に休部中。甲子園交流試合が開幕する前の9日に名将は倒れ、大会2日目に息を引き取った。熱戦を繰り広げる球児の夏を、天国から見守る。

1977−79年にPL学園で指導を受けた小早川毅彦氏(本紙専属評論家)「技術面はもちろん、野球に取り組む姿勢、試合の中での対応など、私の“野球の基礎”を教えてもらった監督だった。指導には妥協がなく、厳しくて怖かった。ノックが抜群に上手で、いろいろな打球を打ち分けた。そのおかげで、みんな守備がうまくなった」

PL学園監督のバトンを受けた中村順司氏「亡くなられたと、グラウンドで倒れられたと聞いています。わたしがコーチ時代の、逆転のPLの時の監督さんです。ご冥福をお祈りいたします」

法大で2学年後輩の江本孟紀氏(本紙専属評論家)「法大1年のとき、山本さんは3年生。とにかく、しごかれた。後年、PL学園の監督室に遊びに行ったし、食事もした。法政OB会でも『あの頃は、しごかれましたねえ』と軽口をたたくなど、交流させてもらった。親に頼ってでもプロへ…などとは考えず、アマチュアの指導者として成功。よく頑張られたと思う。ご冥福をお祈りいたします」

日刊スポーツ 2020.8.12
https://www.sanspo.com/baseball/news/20200812/hig20081205030003-n2.html