【球界平成裏面史(48)、岡田阪神(9)】寂しいなあ。これはあくまで主観だが、阪神で活躍した選手の去り際に対する素直な印象だ。もちろん、そんなことばかりではない。華々しく引退セレモニーで送り出される選手は何人もいた。だが、申し訳ないが目立ってしまうのは悪い例。平成21年(2009年)の今岡誠内野手の退団は、まさに寂しい方の例だった。

 05年の幻影を誰もが引きずっていた。5番を打ち、プロ野球歴代3位のシーズン147打点をマーク。文句なしの打点王に輝いた。だが、翌年から成績は急降下。右手バネ指の手術を受けるなど、万全でシーズンに臨むことがままならなくなった。阪神最終年となった09年はわずか23試合の出場。打率も1割3分3厘と精彩を欠いた。

 リーグ優勝に貢献した05年以降、4年連続で結果を残せていなかった。高額年俸と貢献度のバランスも崩れた。そうなると話題はどうしても去就へと向いてしまう。9月1日には複数紙で「引退」「戦力外」という見出しが躍った。ただ、筆者自身は、「引退はしません。僕、本人がそう言っているんですから」という今岡の言葉を信じ、獲得に名乗り出る球団を取材して回った。

 球団サイドは8月中に今岡に来季の構想外であることを伝えていた。今岡は熟慮し現役続行を目指すことを決断。結論を出した。10月に入り自由契約となったが、他球団からのオファーはなくトライアウトへ参加した。

 この時の様子を当時、就任直後だったオリックス・岡田彰布監督が「そんな、さらしもんにして」と痛烈に批判していた。いわば戦力外選手の“品評会”とも取れる12球団トライアウト。首位打者と打点王を一度ずつ獲得した選手と、一軍経験のない若手投手との対戦も当日にはあった。
 さらに、当時の岡田氏は阪神フロントへ向け「俺やったら引退するように説得しとるよ。続けたいんやったらそれで、なんぼでもやりようあるやんか」とヒートアップ。2度の優勝の功労者の去就をスマートに決められなかった。昔からイメージのある、その手の手際の悪さに口を開かずにはいられない状態だった。

 紆余曲折ありながら、今岡の去就はロッテへのテスト入団という形で落ち着いた。その情報をつかみ今岡に直撃した時には「僕の立場を考えてください。話せないですよ。相手先もあることなので迷惑をかけられないですから」と、慎重に言葉を選びながら、否定はしないというメッセージをくれた。

 そして、10年の年明けだった。「高知の安芸で自主トレ始めます。時間があれば取材に来てください。プロに入った時の原点ですからね。そこからスタートです」と連絡が入った。2月のロッテ春季キャンプでは合格し、マリーンズの一員となった。

 その後は解説者を経て阪神で二軍コーチ、ロッテで二軍監督という経緯をたどっている今岡。あくまで本人が決めたことなので異論はないのだが…。今岡退団の顚末といい、昨季の鳥谷の退団といい、何か寂しさが残る。これで阪神の生え抜きスターから、自軍の指導者が生まれるのか。そんな気がしてならない。

東京スポーツ

6/13(土) 11:00 Yahoo!ニュース 183
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