【野球】打率3割を残しながら、33歳の若さで引退した“クセ者”【元木大介・最後の1年】41試合 .305 0本 8打点 1盗塁 [砂漠のマスカレード★]
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◆『男たちの挽歌』第19幕:元木大介
その男は、今季から巨人一軍ヘッドコーチになった。
25日、元木大介は巨人球団公式インスタグラムでインスタライブを行い、1時間近くファンと軽快なトークで交流した。コーチ就任時は大物OBから“タレントコーチ”なんて批判されていたが、いまや各チーム取材規制で球団独自の情報発信力が求められる中、そのラーメン屋……じゃなくてテレビで鍛えたタレント性は貴重だ。
実は本連載も、今週は「王貞治編」を予告していたが、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため図書館が約3カ月休館となり、資料が揃わず元木大介編に変更してお送りすることとなった。なお、小学6年生の時に後楽園球場で、その王と記念写真を撮ってもらいYGマークに憧れたのが元木である。
「大きくなったら巨人軍に入れよ」と王から挨拶がてら声をかけられた大阪の野球少年は、やがて上宮高校へ進み、甲子園で歴代2位タイの通算6本塁打を放つ高校野球史に残るスラッガーへと成長する。
◆ 憧れの巨人と浪人生活
そして、イケメンで女性人気も高かった甲子園のアイドルは、ドラフト会議前に巨人入りを熱望したのである。だが、1989年(平成元年)のドラフトは野茂英雄や佐々木主浩が顔を揃えた歴史的な豊作年。巨人は早くから六大学の三冠王スラッガー大森剛(慶大)の獲得へ動いていたが、17歳の元木の実質的な逆指名に球団内部も揺れる。
元木のスター性や話題性は、この年限りで引退する中畑清の後釜三塁手として、申し分のない逸材だ。だが、蓋を開けたら1位大森で、夢破れた元木はダイエーホークスの外れ1位指名を受けるも、これを拒否してハワイでの浪人生活へ。
ちなみにハワイといっても華やかなワイキキビーチではなく、街灯もない島の裏のさびれた地区。テレビの『大相撲ダイジェスト』日本語放送が唯一の楽しみで、人恋しさに日本人の新婚カップルに話しかけたりもした孤独な青春の記憶。
肝心の野球は地元少年野球コーチの大工のおじさんに頼んで、マシンとボールを借り、だだっ広いフェンスもないグラウンドで打ち続ける。試合は地元の草野球チームで、無名の大学チームと試合をする日々。せめて肩が弱くならないようにピッチャーを希望した。そんな生活を半年ほど続け、ようやく90年ドラフトで悲願の巨人1位指名を受けるわけだ。
◆ 終わることなきサバイバルの始まり
しかし実質的な1年のブランクもあり、プロのサイズとスピードに戸惑う。だが、元木にはクレバーさがあった。冷静に現実を見て長距離砲への夢を捨て、つなぎ役の右打ちを覚えモデルチェンジを試みたのだ。チャンスに強い打撃と、どこでも守れる内野の便利屋、時に外野守備にも就き、さらに夜はチームの宴会部長として次第に出番を増やしていく。
いい車に乗って、高級な酒を飲みたいという、若手時代から一昔前の昭和のプロ野球選手のような人生観だったが、スポンサーをつけて飲むことはしなかった。時間に縛られ、気を遣うくらいなら自分の金で飲んでいた方が断然いい。東京の遊びをそれなりに楽しみながら、元木は周囲に流されない強さとしたたかさを持っていた。
その頃、90年代中盤以降の巨人は長嶋政権の大型補強時代だ。清原和博、石井浩郎、広沢克巳(現・広澤克実)といったベテラン、さらに逆指名で同学年の仁志敏久。96年から3年連続でマント、ルイス、ダンカンと終わりなき助っ人三塁手補強まで。だが、ことごとくハズレ助っ人というなんだかよく分からない強運ぶりも発揮して、キャンプでは毎年のようにリタイア第1号元木が鉄板ネタとなりながらも、シーズン終盤には気が付けばレギュラーとして起用されている。
チームが4番打者タイプばかり集めていた時期、一軍で生き残るために考え方を変え、プレースタイルを変え、やがて元木は長嶋監督から“クセ者”と重宝されるようになる(ちなみにミスターには結婚式の仲人も務めてもらった)。
チャンスで打席が回るとワクワクするという強心臓ぶりに、大観衆の前で顔色を変えずに隠し球を決める図太さを併せ持つバイプレーヤー。98年、99年にはオールスターにファン投票で選出され、キャリアハイは26歳で迎えた98年の打率.297、9本、55打点。この年の得点圏打率.398はリーグトップの勝負強さだった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/24a981fc75986016eae3a11bfa9712d401887ccd
5/27(水) 12:22配信
http://npb.jp/bis/players/01103883.html
成績 ◆ 首脳陣と世代の交代
2000年代もFA移籍の江藤智を始めとして次から次へとライバルがやってきたが、97年からは6年連続100試合以上出場と、その地位を確立、年俸も1億円を超えた。
だが、03年限りで原辰徳監督が退任して、堀内恒夫監督が就任すると、徐々に立場が危うくなっていく。
当時、松井秀喜のメジャー移籍でチームは柱を失い、主力の清原和博はオーナーや監督と度々衝突しており、周囲のベテラン選手たちも含め世代交代の気運が高まる。
一方で大型補強は続いており、03年オフにはダイエーから同い年の三塁手・小久保裕紀が移籍してくる。
様々な要因が重なり出場機会を失い、追い打ちをかけるように自身の春季キャンプ二軍スタートを新聞報道で知った。
結局、04年はわずか55試合の出場に終わり、翌05年に33歳の元木大介は「最後の1年」を迎えるわけだ。 ◆ 余力を残した中で選んだ引き際
プロ15年目の2005年(平成17年)は開幕からベンチスタートが続き、ペナント中盤に一時盛り返すも、7月5日に中日戦で走塁の際に右太ももに強い痛みを感じ、治療のため二軍落ち。
ファームでは8月16日に実戦復帰したものの、その時期の巨人は激震に見舞われていた。
8月4日の広島戦では清原が7番起用を不服とし、ホームランを打った後にベンチ前で出迎える監督やナインを素通りする、ハイタッチ拒否事件を起こし、8月下旬には事実上の構想外を通告される。
春先に外野守備を巡りコーチと衝突したタフィ・ローズも右肩の治療を理由に二軍に降格すると、そのまま帰国して退団と、優勝争いから脱落したチームは急激な若返りを図っていた。
自著『クセ者 元木大介自伝』(双葉社)によると、9月25日に「明日、帝国ホテルに行ってくれ」と二軍マネージャーからの電話が鳴り、
翌26日にその場で球団代表から来季の構想から外れていることを告げられたという。
3年前に本人にインタビューをした際、元木は当時の様子をこう振り返った。
「あぁ、クビだなと思ったから。ベテランだったら分かるよ。そういうの、自分が若い時から見てるんだから。
先輩方が辞めていく時に、なんで一軍に呼ばないんだろうと不思議に思ってたら、その年限りでクビになってるみたいな。
最終年はもう終わりだなと思った。イライラしたけどね。まだできるよって」
そう、まだ33歳。この年も出場こそ41試合と少ないが、120打席で打率.305(OPS.708)をマーク。
12月に34歳の誕生日を迎えるが、技術はもちろん体力的にもやれる自信はある。オリックスの仰木彬監督からは「大阪に来い」と誘いの電話も貰った。
それでも、元木は1年浪人してまでこだわった巨人で終わることを選んだのである。新人時代に「ダイスケ」とやさしく声をかけてくれた原辰徳に最初に報告。お世話になった先輩や可愛がった後輩にも直接電話で伝えた。 ◆ 愛されたクセ者
10月4日の朝、二軍ミーティングの前に若い選手たちに引退の挨拶、ユニフォームやバットを欲しがる若手にあげると、胴上げで送り出された。そして、翌5日。
奇しくも父親の誕生日だったこの日、シーズン最終戦の本拠地での広島戦に「5番一塁」で先発出場する。
結果は4打数0安打だったものの、最終回にはショートの守備にも就いた。ここでも最後はマウンド付近で胴上げされ、グラウンドを一周してお別れ。
この日の東京ドームは、「背番号2」のグッズを掲げて声援を送る観客の姿が目立ったが、ファンも巨大戦力の中で15年間もたくましくサバイバルし続けた、“クセ者”元木を愛したのである。
思えば90年代、巨人戦が地上波テレビ中継されていた最後の時代に主力を張った松井秀喜、高橋由伸、上原浩治、二岡智宏、仁志敏久、清水隆行といった生え抜きスター選手たちで、
東京ドームで引退試合をしてユニフォームを脱げたのは、この元木くらいなものである。
引退後はラーメン屋でしくじって……じゃなくて、クイズ番組などでテレビタレント的な活動が増えた際も、プロ入り時の恩師・藤田監督の「球場にくる時にはちゃんとネクタイを締めていくものだ」という教えを守り、
球場取材時はスーツを着用する野球に対する真摯さを持ち続けた。
そして、2018年オフに三度目の指揮を執る原監督の元で13年ぶりに復帰。19年の5年ぶりの巨人リーグVに貢献すると、20年から一軍ヘッドコーチに昇格した。
気が付けばレギュラー起用されていた選手時代と同じく、振り向けばダイちゃん状態。大将を支える“クセ者”ぶりは健在だ。
さて、元木は規定打席不足ながら打率3割を打ちユニフォームを脱いだが、過去にはなんと30本塁打を放ちながら、引退した偉大な選手もいた。
元木少年も死にたいくらいに憧れた、1980年の王貞治である。 ホークスの躍進は、遡れば元木の入団拒否にたどり着く
ドラ1に逃げられる失態を二度と繰り返さぬためには球団そのものに魅力を持たせなくてはならないと、中内は痛感した
そして数年に渡る交渉を経て福岡ドーム元年に根本陸夫を引きこむことに成功し、根本はフロントから現場まで全ての体質改善に着手した
これら一連の努力は1999年の優勝で結実し、ホークスは今日に至るまで常勝球団として揺るぎない存在を築いた
【結論】元木大介さん、ありがとう。 こいつと清原がジャイアンツの雰囲気を壊してたからな >>1
>元木にはクレバーさがあった。冷静に現実を見て長距離砲への夢を捨て、つなぎ役の右打ちを覚えモデルチェンジを試みたのだ。
練習嫌いなんじゃなかったっけ? 元木が1軍で試合に出れるのって当時からずっと巨人はセカンドが穴だったとわかる 仁志や坂本でも20本以上打てる東京ドームなんだから長距離砲を諦める意味が分からんな 村田真一も茂雄に、お前もういいだろって言われたんだっけ
元木も何か言われたんだろうな 亀山なんか28歳で引退したからな
一軍にいながらよく辞めようと思えるね 甲子園でまだ禁止でなかった隠し玉使ってアウトにする。
試合終了後、ベンチで監督から
気にするなの一言。
なんのことか元木はわからなかったが、母校には
苦情の電話が鳴りやまず、4,5日まともな通話ができなかった。 巨人一筋で引退するメリットが半端ないんだろうな
入団時の浪人といい、最初から拘りまくってたもんな でも冗談抜きでこいつがチャンスで出てくると怖かった。何するかわかんないし。
勉強頭と野球頭の違いを的確に表したプロ野球選手の代表格だと思う。
ノムさんの下についたらどうなっていたのか。。 ハワイで一年間ムダにしなきゃスラッガーとして大成してたのかもな
まあこれは約束を反故にした読売が悪いんだが 川藤は通算安打数200本
しかし、球界の先輩
元木は川藤が球場に来た時に挨拶せず無視
これを見た清原は激怒して川藤に謝りに行った 甲子園決勝のサヨナラ暴投しか覚えてない
あれは最高に笑った 元木は守備範囲が狭すぎて、仁志との差が酷かったな
仁志は上手いんだけど、元木との比較で更に上手く見えた 二遊間守れたのと、左腕アレルギーだった長嶋時代に右打者だったのが大きかったね 通算かとおもったらたった100打席の話かよ
OPSは褒められた数字じゃないし通算打率2割6分とかただの2流選手やんけ 元木が守ってるところに打球飛ぶの怖かったよ
うつ伏せになるから何してんの?と思ったら
ボール卵みたいに温めてやがった
確か10.8決戦 浪人して巨人行ったのは正解だったな
他の球団ならそんなやついたなレベル 清原軍団とか言われるけど長嶋のときも原のときも清原はいたんだよ
堀内が監督をやった二年間はチームがバラバラになって収拾がつかなくなった >>16
仁志がいたじゃん。
どちらかといえば清原と二岡が怪我がちで、その穴埋めをしてた印象だな。 > いい車に乗って、高級な酒を飲みたいという、若手時代から一昔前の昭和のプロ野球選手のような人生観だったが、スポンサーをつけて飲むことはしなかった。
ああなった今でもスポンサーに頼りきりの清原とはここが違うということか 沖縄キャンプかなんかで女子高生引っかけて酒飲まして野ションさせてライターの火で照らしてマンコ眺めたとかゲンダイに書かれてたな 任侠映画でいい味出してたまさに器用なバイブレイヤー
野球界に戻ってもう出なくなったけど 二死 は活躍してたイメージある
清原や広沢は期待されてたわりに全然だったな 長嶋茂雄が仁志をセカンドにしたときはもったいないと思ったけど
長い間セカンドを固定できたな >>42
長嶋監督は自らFA獲得に動いた手前、清原には何かと気づかった
その姿を目の当たりにした原ヘッドも監督就任後はやはり手厚く接した
だが堀内にしてみれば清原など単なる外様
外国人助っ人と同じレベルで容赦なく扱ったら清原は拗ねてしまった それなりにセンスはあったのかもしれんが小物臭が半端なかった男 この時代に甲子園で活躍しながら
プロ入り後ガッカリさせられた選手
元木、犬伏、内之倉かな >>47
仁志は高いカネ払って逆指名で社会人獲った割りにはショボかったという印象
あんな程度の選手はドラフト下位の高卒を二軍で鍛えて育てないとダメ 元木一時期激太りしてたけど最近は割と健康的になったな
嫁がヤバいことになってるが テレビではおバカタレントだったが、野球に関しては天才なんやろうね こいつ子供に対する怒り方がパワハラっぽくて一気に嫌いになったわ 落合が野球センスをべた褒めしながら「練習嫌いで虚弱体質」と言っていたな ショートで右打なら一流の成績だと思う
クビは清原軍団だからだろ >>59
禁止ではないやろうが、やったら世間様からフルボコにされそうやなw
今はそういう時代なんかな 器用すぎて便利屋で終わったってイメージだな
あり得ないがもう少し選手層薄いとこならワンチャンあったかも あれ?ドラフト前に球団職員になったのは誰だったっけ? 中日ファンからすると嫌な選手だった
山本昌がよく打たれてた記憶がある >>65
もともと審判に対する抗議も禁止されてるし、高校野球はスポーツではない何かであることは間違いない 元木って通算war10以下だぞ
さすがに一流選手はない >>14
ほんとそれ。
この二人のせいで巨人ファンやめたわ 全力疾走すればセーフになりそうなのにちんたら走ってダブルプレーになる姿が嫌いだった 上宮から阪神なら、四番候補で育てようとして才能開花しなかっただろうな。
こいつの野球的なしたたかさは日本一。戦力十分なチームだからこそ最大限活きたと思う。 巨人はなんで元木じゃなくて大森にしたんだろうな
大森なんてあんな打ち方じゃ絶対通用しないの分かっただろうに >>60
出場が80試合くらいなら一流選手って言ってたなw ダイエー行ってれば
3割手前、20本とか打ってたと思う
藤本みたいに >>39
高校の時から足遅っそ!って思ってたけどなw 甲子園球児んときはマジでヒーローで世代No.1のホームランバッターやったなあ
それがプロであんなコっすい超脇役みたいなるとは 14年間で初3割打てたからやめたんだろ
40試合しか出てないけど 結局よみうりだからスポット当たっただけだろ。
同型なら近鉄水口とか評価されるべきだったわ。 大越基がいる仙台育英に負けたんだっけ
優勝校が思い出せない >>65
カット打法の子とかかわいそうだったな
いやプレーが好きなわけではないけど、やめさせるなら事前に明確な告知なりルールを設定すべきだった
そのときの雰囲気でダブルスタンダードみたいな言いがかりで潰されたからな 顔も同年代だと緒方孝市とかの方がかっこいいよな
古くは定岡とか
元木も野球選手にしてはかなり上出来ではあるが 打率が3割なだけで、通算打力(ops)は.700すらもいってない
通算の打撃成績は中井とほとんど変わらん 巨人行かなきゃ何処でもレギュラー、クリーンナップだったのにな >>49
長嶋も原も、主張が強く見えながら柔和なところもあるからな
天性のスター性なんだろうか
野手出身ってのもあるのかな
堀内は完全に俺が大将、ついてこい、だからね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています