その2日のヤクルト戦(千葉)ではデーゲームで敗戦後、移動の京葉線に男性数人が乗り込み、東京駅で藤田に「頼むから辞めてくれ」「話を聞け」と抗議。球団同席で新幹線の個室で会談する異例の事態。藤田は「今は若いチームを育てているところ。サポートしてほしい」と説明した。

 本紙評論家の西本幸雄は6月4日付紙面で<監督は選手に語りかけ、情熱に共鳴する者を増やせ。情熱がないならば辞めればいい>と提言している。<フロントも監督も心が熱くないと見えたならば、選手たちが立ちあがれ。物騒な言葉だが、自分たちで革命を起こす気構えがほしい>。

 自分に厳しく、阪神唯一(当時)の2000安打を放った藤田は他人にも厳しい。自他ともに認める口べたで意思疎通を欠いた。理解者は少なく孤立していた。

 7月、航空営業部から異動で球団常務に就いた野崎勝義は著書『ダメ虎を変えた!』(朝日新聞出版)で<采配以外で藤田監督の評判はよくなかった>と記している。<営業部から、総務部から、選手からも。周辺からの反発が彼には致命的だった><ファンの指弾は無論、マスコミの監督降ろしは痛烈であった>。

 8月に入ると球団内で監督問題が話し合われ、藤田に厳しい意見が飛び交った。元ユニホーム組の西山和良、横溝桂も球団取締役にいた。取材をもとに24日付1面で書いた「今の戦力なら57勝はできる」との分析は当時の成績では及ばぬ数字で解任の要件となった。

 藤田は28日、オーナー・久万から聞いた「私から辞めさせることはない」との言葉を盾に留任を主張。29日に球団社長・三好一彦が久万に確認し「藤田監督の取り違い」と会見で否定した。

 9月3日、臨時の球団役員会を開き、三好は「監督問題の検討を開始した」と発表した。ある役員は「辛らつで厳しい内容だった」と解任は固まった。6日には藤田に内々に「今季限り」と伝えていたと後にわかる。

 12日、緊急球団役員会で藤田の即時解任を決め、甲子園の球団事務所で通告した。ところが藤田は「オーナーから何年もやれと言われている」と不当解雇を訴えた。三好は久万に電話で確認して否定するなど、押し問答が続いた。午後5時に始まった会談は日付が変わった13日午前2時過ぎまで、何と9時間以上に及んで物別れとなった。

 契約は1年なのは確かだった。翌13日の会談は30分。金銭補償を受けて藤田は解任に応じた。同日夜の横浜戦(横浜)からチーフコーチ・柴田猛が監督代行として指揮を執った。

 観客動員は200万人を割り込み(186万人)、球団は28年ぶりの赤字に転落した。危機感が募った。=敬称略=(編集委員