◆一般入部で早稲田へ、身体能力の差に圧倒される
京都府出身の安藤さんは父親がラグビーをしていた影響もあり、古豪の大阪府立北野高校でラグビーを始めた。ポジションはCTBだった。「タックルしたり相手にぶつかったりする中、自分を犠牲にしてパスをつないでトライを奪う。怖さと快感とのギャップが、たまらなかった」と振り返る。
3年生のとき、後に日本代表主将を務めた広瀬俊朗さん(38)が入学。練習試合でも結果を出して期待されたが花園には届かず、府大会3回戦で敗退した。「高校ラグビーには悔いが残りました。大学ではどうせなら一流のところでプレーしようと思いました」。一般入試の学生もラグビー部に受け入れてくれる大学に照準を合わせ、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科(現・スポーツ科学部)に合格した。
高校日本代表クラスがたくさん所属する環境で、安藤さんは仲間との身体能力の差に驚かされた。中でも印象に残ったのは、1学年上で後にトヨタ自動車でも活躍した山崎弘樹さん(42)のプレーだった。「これまで見たこともない速さで動き出すのを見たとき、すごいところにきてしまったなと思いました。自分は強化選手ではないので寮には入れず、一人暮らしをしていました。当時は必死でお金もなく、とにかく炭水化物でおなかを膨らましていました」
生まれつき左目が弱視で、ハンディとは考えていなかったが、「いま思えば、左側の距離感がつかめないので、タックルなどにも影響しました。自分としては、さぼらずに一生懸命努力するだけでした」。その姿勢が実り、3年生の春、1軍戦で1回だけ試合に出場した。早稲田の象徴である「赤黒」のジャージーを身にまとい、天にも昇る心地だった。

◆トップが変われば組織が変わる
4年生だった2001年、サントリーでも活躍したOBの清宮克幸さんが監督になった。それまで1日4時間だった練習が、半分の2時間になった。効率性を重んじ、組織ががらりと変わった。安藤さんにとって大きな衝撃だったのが、全選手を対象にした「採点」だった。
「練習試合も含めて毎回、各選手のプレーが点数化されました。パスを成功させたら1点、ラックでボールを出せたら1点、パスミスしたらマイナス1点という感じで、プレーの貢献度を可視化する仕組みです。どういうプレーが正しいかを明確に示してもらい、チームに迷いがなくなりました」。安藤さんはけがもあって、最終学年は1軍の試合に出られなかったが、「3軍や4軍まで明らかに強くなった」と振り返る。
当時は低迷していた早稲田だったが、清宮監督の就任1年目の02年の大学選手権で準優勝した。「トップが交代するだけで、組織が変わるということを強烈に見せつけられた。その経験は、間違いなくいまにつながっています」。早稲田は翌03年、清宮監督の下、13年ぶりの大学日本一を果たした。東京・上井草に練習場を整備し、アディダスと契約するなど組織力をさらに高め、いまにつながる礎が作られた。安藤さんはまさに新時代の出発点にいた。

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