――虚淵さんは、ロボットアニメというジャンルのどんなところに面白さを感じているのでしょうか。

虚淵 僕は幼いころからロボットアニメを見てきて、『機動戦士ガンダム』(1979年〜、以下『ガンダム』)、『太陽の牙ダグラム』(1981年〜、以下『ダグラム』)、『装甲騎兵ボトムズ』(1983年〜、以下『ボトムズ』)といった作品が好きだったんです。とくに強烈だったのは『ダグラム』の第1話でした。冒頭でいきなり、主人公が乗るロボット(コンバットアーマー)が、壊れて朽ち果てているシーンから始まるんです。人のかたちをした大きなロボットが壊れることで、モノであり、風景になりうることに衝撃を受けました。続く『ボトムズ』ではオープニング映像では、無数のロボット(アーマードトルーパー)が壊れて死屍累々となっている中で、主人公が乗っているロボットだけが立っている。その強烈なカットが当時、小学生だった僕に焼きつきましたね。たやすく残骸になってしまうロボットたちが、人のように躍動感を持って動きだす驚き。その快楽が僕にとって大きかったです。

――ロボットが”壊れる”ことに面白さを感じていた。

虚淵 ”壊れる”ってすごく強烈なカタルシスだと思うんです。『ガンダム』も最終回では、主人公が乗るガンダムが手と頭を失った状態で戦うじゃないですか。それまで格好良かったガンダムが完全に壊れてしまって、主人公だけが生き残る。あの決別のドラマは印象的でしたね。残骸になり、風景になって消えていくロボットと、それを手放して生きていく少年の対比が、すごくドラマチックだなと。でも、最近のロボットアニメを観ていると、そういう美意識はすでに古いものになっているのかなと感じることもあるんです。

――近年のロボットアニメをご覧になっていかがですか?

虚淵 最近のロボットアニメは、壊れないんですよね。まるで美しい神様の象徴のように描かれていて、使い捨ての兵器のように消耗されていくものじゃなくなっている感じがありました。ロボット自体も美しく、込み入ったデザインになっていて、ちょっと破損しただけで動きに支障をきたしてしまいそうで。ロボット観のターニングポイントを感じましたね。自分のロボット観と、世の中のロボット観がズレ始めたのかなと。

――『ガンダム』の本放送が始まってから40年。時代の変化にあわせて、価値観も変容しているわけですね。

虚淵 そうですね。僕らが子どもだった昭和の末期って、そのあた廃車が転がっていたものなんです。廃車のすぐ横を、普通にクルマが走っていたりして、機械の生と死を一度に目の当たりにしていたんですよね。でも、最近はクルマが傷ひとつない綺麗な状態で走っていて、故障するとディーラーが引き取ってしまう。自動車、服、携帯電話……どれも傷ひとつない状態で使うのが普通とされていて、傷がつくと一気に価値が損なわれてしまう。そういう”傷ものに対する忌避感”がすごく大きくなったと思うんです。その結果、”人やモノが死ぬこと”を日常で見かけることがなくなったなと。そういう変化の中のひとつとして、フィクションの中でもロボットを壊さなくなったんじゃないかと思えるんですよね。

――死のタブー化の加速が、フィクションにも影響を与えているのかもしれません。

虚淵 これはロボットに限らず、現代のヒーロー像にも共通に感じることかもしれません。でも、どんなに傷つこうと立ち上がるキャラクターこそが本来のヒーローだと思うし、どこまで壊れたとしても、それなりに使えることが、本来のロボット強さだし、魅力だったと思うんです。

――現実においても、ロボットは壊れてしまうことを前提に、被災地や地雷原などの危険な場所へ派遣されるわけで。”壊さない”ことは、ロボットの本質のひとつを欠いてしまうことになりますね。

虚淵 とくにロボットアニメは、どこまでぶっ壊れようとも最後まで立っているほうが勝ちという、ある種のプロレス的な美学があったと思うんです。壊さない”ことでロボットの道具としての魅力”は失われたのかなと感じているんです。

――ロボットアニメに失われてしまった“壊れる魅力”“使い捨ての美学”の復権が『OBSOLETE』の根幹にはあるんですね。

虚淵 ロボットがロボットである必然性に立ち返って、壊れて、使い捨てられていくロボットを描きたいなと思ったんです。

動画:https://youtu.be/-PxH7dIhBy4
写真:https://ddnavi.com/wp-content/uploads/2019/12/prof-1.jpg

☆記事内容を一部引用しました。全文はソースでご覧下さい
https://ddnavi.com/interview/581522/a/