カップスからSuchmosまで世代を超えて受け継がれるハマのDNA
2019年10月16日 22:47
横浜の海の玄関口、横浜港が開港したのは1859年のことだった。国際的な貿易港となったこの港からはさまざまな外来文化が輸入され、戦後になると米軍基地および米軍関連施設経由でアメリカのユースカルチャーがダイレクトに輸入された。横浜はそうした背景のもと、不良の匂いのするグループやアーティストを数多く輩出してきた町でもある。
1960年代のザ・ゴールデン・カップスやパワーハウス、90年代のダンスホールレゲエやヒップホップ勢、近年のSuchmosに至るまで、なぜ横浜の地からは不良性感度の高い音楽が生まれてきたのだろうか。世代を超えたミュージシャンたちと交流があり、さる8月に横浜不良音楽の最新型ともいえるクレイジーケンバンドの新作「PACIFIC」を完成させた横山剣に、彼の地の不良音楽の変遷について解説していただいた。
取材・文 / 大石始 撮影 / 沼田学
60年代:ザ・ゴールデン・カップスとパワーハウス、そして横浜の不良少年少女たち
横浜の不良音楽史を考える際、原点となるのはやはりザ・ゴールデン・カップスだ。1966年12月に活動を開始した彼らは、グループサウンズ全盛期の中で異端のグループでもあった(当初の名前は「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」)。村井邦彦らプロの作曲家による楽曲も歌い、歌謡界にも打って出た彼らだが、グループとしての本質はあくまでもアメリカのR&Bやサイケデリックロック。デイヴ平尾のシャウト、エディ藩のファズの効いたギター、ルイズルイス加部の強烈にドライブするベースは、90年代以降も再評価され続けている。
「当時は子供にも人気があったし、僕もシングルやアルバムを通じてカップスを知ったんです。ほかのGSグループみたいにおそろいの服を着たりしないところもカッコいいなと思いました。カップスは今で言うとSuchmos的な立ち位置だったんですよ。クリエイティブで、それまでやってきたことをぶん投げてすぐ次にいっちゃう。ポップセンスもあって、そういうところもSuchmos的だったんです。
僕より10歳ぐらい年上のいとこがカップスを追いかけていて、当時いろいろ教えてもらいました。彼らがライブをやっていた本牧のゴールデン・カップはすごく小さな店なので、メンバーはカウンターの上に座って演奏していたとか。当時は米兵もいっぱいいたわけで、すごく狭い中で演奏していたんだと思います」
===== 後略 =====
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https://natalie.mu/music/column/351287