「局内でも“なんだ、アイツはワイドショーかよ”みたいな扱いがあった。
でも東海林さんは1度としてワイドショーを卑下したりすることはなくて、真摯に物事を伝えることだけに邁進していたんです。
そんな姿勢を誰もが認めていたから、現場へ行けば警視庁記者クラブの人たちが“東海林さん、何かわかりましたか?”なんて聞きに来たし、ドライバーや裏方のスタッフからも慕われていました」

街では女子高生からも“東海林さん、東海林さん”と声をかけられた。
ワイドショーの支持層を広めた功績は大きいと話す。

「東海林さんは鬼っ子だったワイドショーにおいて、誇りを持ってリポーターという役割を確立したパイオニアだと思っています」

野際陽子さんとは大学時代からの親友

'34(昭和9)年、埼玉県浦和市で4人姉妹の末っ子として生まれる。先祖は岩槻の藩主。曽祖父の代に廃藩置県で浦和に移り住み、商家となったという。

東海林さんの幼少時、長男だった父を中心に祖父母や叔父、親戚の書生、姉妹に1人ずつついた女中らと大家族で暮らしていた。

浦和駅から中山道まで続く商店街を東海林さんは夕方になると浴衣姿で歌って踊って練り歩き、店の人たちに声をかけてもらっては喜んでいるような子どもだった。

「たぶん家の中には面倒なこともあったと思うんですが、姉たちがカバーしてくれていて、末っ子の私はそれに気づかずに大きくなったんです。

根本的にあまりくよくよせず、人を楽しませるのが好きな性格の土台はできたんですが、あのままではダメなお母さんになっていたと思います。
仕事をしたことで世の中をいっぱい見ることになり、ようやく社会性を学んだんです」

浦和第一女子高等学校を卒業後、立教大学英米文学科に進学。ESSサークルに入って、英語劇に力を注いだ。1年後輩でのちに女優となる野際陽子とは“のぎ”“のっこ”と呼び合う仲だった。

だが、2年前にその親友も失った。

「病気と聞いていたので事務所に電話したんですが通じずに、そのままになってしまったのは心残りです。
ただ本人が偲ぶ会とかもやらないでという方針だったと思うんで、それはそれで潔くて野際陽子らしいと思っています」

'53年、大学を卒業すると超難関といわれるアナウンサー試験を突破し、ニッポン放送に入社する。

「研修では先輩から怒られてばかりでした。辞めようかとも思ったんですが、どうせいちばんじゃないなら後ろからついていけばいいかと思ったら気が楽になったんです」