'95年1月に発生した阪神・淡路大震災のときは、その日のうちに現場に入り、長田地区の避難所へ向かった。

「月明かりが照らす中、誰もしゃべっていなくて、静まりかえっていました。大きな余震を経験した後、ようやくしゃべってくれる人が現れたんです。
同じ経験をしてない人間に突然聞かれても何も話したくないという気持ちがあったと思いますよ」

 現地で取材を続ける中、憔悴しきった人々の様子を目の当たりにした。スタジオからは「もうちょっと困ったこととかないんですか?」
「ミルクが足らない、毛布が欲しいというような絵柄が欲しい」といった要望が届いた。

「テレビなので大変で苦しんでいるという様子を何とか画面に出したいというのがあったんでしょうけど、実際には現地はへたばっていたんですよ。
腹が立って、“みなさん寝てないんで、寝たいと思ってると思いますよ”と言いました。
スタジオとの温度差を感じ、やはり現場メインでやってくれないとダメだと思うようになりました」

東海林のり子イエスの法則

当時、東海林さんと同じ思いを抱き始めていたという藤田さんも言う。

「スタジオにコメンテーターの方が入るようになって、次第に現場無視のコメンテーターショーになっていったんですね」

60歳のとき、東海林さんはやりきったという思いとともに取材の現場から退く決意をする。

その後、テレビ朝日系の『パワーワイド』のメイン司会に抜擢され、『ワイド!スクランブル』にはコメンテーターとして出演した。

「スタジオで伝える側になって、どう現場に思いをはせてコメントしようかといつも考えていました」

ニッポン放送を退職して以来、50年以上フリーランスとして現役を続けてきた。そのゆえんとは何か。

「東海林のり子イエスの法則というのがあって、“私、こういうのはできません”と言ったことはなかったんです。
基本的に“ああ、いいですね”で受ける。せっかく声をかけてくれたのに断っちゃいけないと思っていたのね。だから細々とつながってきたのかな」

自分の中で区切りがついたときはスッパリと閉じる。また別の展開があると信じて、新しいことにも躊躇なく飛び込んでいったという。