【日本の女子サッカーの歴史】No.3

『日本の女子サッカーリーグ消滅の危機』

アトランタオリンピック(1996年)で日本女子代表が3戦全敗したことが影響し、
観客が激減。
さらにシドニーオリンピックへの出場権を逃したことや、
バブル経済の崩壊から企業をバックにもつチームの相次ぐ解散や地域クラブ化、
またプロ契約選手や外国人選手が次々と契約解除にあうなどがおこる。

1998年のシーズン中にフジタサッカークラブ・マーキュリー、
日興證券ドリームレディースが続けて廃部を発表。
リーグ終了後の理事会では翌シーズンから各チームに求めていた
運営分担金を3分の1に減らし外国人選手
(日本に帰化した選手は除く 2000年に再開されたが、当初は外国人の登録がなかった)
を登録しないことなどを決め、規模を縮小して8チームで行うことを決めたが、
1999年1月の全日本女子サッカー選手権大会終了後には
鈴与清水FCラブリーレディースとシロキFCセレーナが相次いで脱退を表明。
リーグ衰退の危機に直面することになった。
そのため1999年からはチャレンジマッチ(←チャレンジリーグ)を廃止し、
浦和レイナスFCの新規参入と、試験的にではあるが
大学リーグから日本体育大学女子サッカー部を受け入れを行いチーム数を揃えることとした。