(前略)

■文春の落日と、私たちのリテラシー

さて、文春の後半の方のグラフをもう一度見てもらうと、直近2018年10月にちょろりと山ができている。
片山さつき大臣の疑惑報道だ。

”ちょろりと”と書いたが、実感としてもテレビで大して取り上げられなかった。
文春のスクープが不発を続けている。

あれほど毎週のように文春砲が放たれ、テレビが一斉にそれを報じていたのに、いったいどうしたことだろう。
単純な話だと私は思う。

文春はテレビに飽きられたのだ。
“文春砲”とはもう呼ばれなくなっている。

テレビは結局、何もかもを飲み込みエキスを吸い尽くしてぽいと捨てるうわばみのような生き物である。
それはとりもなおさず、我々の好奇心の写し鏡なのだろう。

つまり、文春に飽きたのは、我々なのだ。
文春に反省すべき点があるとしたら、あまりにも連発しすぎた。
要するに、調子に乗りすぎたのだ。

文春は、デジタルもうまく使い映像にも手を出して新しいスキャンダルメディアとして生まれ変わる試みにトライしていた。
だが結局は、紙の雑誌の部数減少は防げないし、紙を支えてきた団塊の世代に命運を握られている。

だから最近は、文春でも健康ネタが増えてきた。
気がつくと、オヤジ週刊誌はどれもこれも、健康ネタが満載だ。
スキャンダル誌なんて、実はもう要らなくなっているのかもしれない。

ではテレビはどうするのだろう。
テレビが文春ネタを取り上げなくなったのはもうひとつ、信頼性を取り戻すべきとの空気があるからだと思う。

ようやくわかってきたのだ。
メディアにとって信頼性ほど大事なものはないのだと。

それは我々が学んだからでもあると思う。
なんだかんだ言って、我々のリテラシーは上がっているのではないか。

フェイクニュースには気をつけろ。スキャンダルに振り回されるな。
我々が新時代のメディア環境に慣れるために、文春砲に踊る日々は必要だったのだろう。

だがもう、そのステップは卒業しようとしている。
文春の落日は、そんなターニングポイントの象徴でもあるのだと思う。

※一部引用しました。全文はソースでどうぞ
https://news.yahoo.co.jp/byline/sakaiosamu/20181029-00101734/