「稼いだのは1カ月…」ブレークから10年たった鼠先輩は今
2018年9月3日

2008年、「ぽっぽぽぽぽぽぽ〜♪」のフレーズが印象的なムード歌謡
「六本木〜GIROPPON〜」で一躍有名になった鼠先輩(45)。
ブレークした当時はテレビに引っ張りだこだった。ちょうど10年たった今、どうしているのか。

  ◇  ◇  ◇

鼠先輩に会ったのは、昨年オープンした西武新宿線久米川駅から徒歩2分のバー「飲鼠(のみーまうす)」。
トレードマークのパンチパーマにサングラス、白スーツ姿は今も変わらない。
が、ネクタイには「ガッチガチの一発屋」の文字……。

フリーで活動する現在は「地方営業が多いです。町のお祭りとかスーパーの土曜市、飲み屋のイベント。
呼ばれれば全国どこへでも行って、どんなことでもやらせてもらいます」と鼠先輩。

それでも、時にはビックリするような現場もあるという。

「富山県の夏祭りは、おじいちゃん、おばあちゃんしかいない人口190人の田舎町でした。
で、楽屋がなかったんですよ。外に段ボールを敷いて着替えて、
軽トラックの上で豆カラを使ってぽっぽぽっぽ歌いました。でも楽しかったですよ」

以前、テレビ番組でブレーク時の最高月収を1200万円と告白していたが、
年収は「夢がない話で申し訳ないけど2000万円もいかなかったです」と語る。

「稼いだのはほんの1カ月ほど。一瞬の通り雨です。ただ、バッターボックスに立つ時から
自分は一発屋だと分かってましたし、そう決めてました。『のるか反るか』だったのは間違いないです」

人から“一発屋!”とやゆされることもあるが、
「嫌な気持ちはしません。当たり前のことを言われてるだけ。バカにする人もいますけど不発よりマシ。
今の時代、どんなにお金を積んでも当たらない人は当たらないですし。
一発当たるのは宝くじみたいでありがたいです」

■「才能ゼロ、ビジュアルも悪いからスキマ産業で」

さて、岡山県赤磐市出身の鼠先輩は、幼少期は運動も勉強もできなかったそうだが、
明るくて目立ちたがりの性格だった。

「団地住まいで貧乏だったから、友達とおやつ代わりにアリとかいろんなものを食べておなかを
壊してましたね(笑い)。でも貧乏だからこそ、いろいろと考えて面白いことをしてました」

中学に入るとバンドブームが到来。鼠先輩も米パンクバンド「ラモーンズ」のレコードを借りて
パンクロックに目覚めた。
中1から音楽活動を始め、結成したバンドで出場した「BSヤングバトル」(NHK)の岡山大会で優勝。
高校中退、バンドは自然解散したが、プロのミュージシャンを目指した。

アルバイトで貯めたお金で大阪へ出て音楽を続けるかたわら、貧乏バックパッカーに。
1年半ずつ滞在したインドとメキシコを中心に世界を放浪した。

「ニューヨークでメキシコ人のスパニッシュ系のバーでアルバイトをして稼いだり、
彼女に送金してもらったりしてました。文法はムチャクチャですけど、スペイン語は今でもちょっと話せます」

25歳で海外放浪を切り上げ、上京して同郷の恋人の家に転がり込んだ。
アルバイトをしながら音楽に打ち込んだが芽が出ず、結婚を機にプロの道を諦めて就職。
それでも音楽はひっそり続けた。

「才能はゼロ。歌唱力がないしビジュアルも悪いからスキマ産業で勝負しないとダメ。
考え抜いてたどり着いたのが『鼠先輩』という名前とビジュアル、『ぽっぽぽっぽ』という歌でした」

08年、「六本木〜GIROPPON〜」が大当たり。世間の注目を浴びて一発花火を打ち上げた。

ブーム終了後の日々を振り返り、「10年間ぽっぽぽっぽ言ってきました。
そのへんのハトよりも、ぽっぽぽっぽ言ってると自負してます」と笑う鼠先輩。
現在の年収は「4人家族が不自由なく養えるくらい」とのこと。

先の見えない状況でも鼠先輩は前向きだ。

「基本的に、ダルくて面倒くさくて、うっとうしいのが世の中。
サラリーマンも学校の先生もタレントもアルバイトも、皆それぞれ大変。
だからこそ、与えられた環境でポジティブに、なるべく自分の好きなことをやっていくしかないと思いますよ」
(取材・文 桜井恒二)

日刊ゲンダイ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/236445
「ハトよりも『ぽっぽぽっぽ』言い続けた」と鼠先輩
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