ブキさん死去…1956年南海入団時に伝説争奪戦「あなた買います」モデル
2018.8.4 05:03 サンケイスポーツ
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南海の監督時代、契約更改を終えた香川伸行さん(右)と並んで笑顔を見せる穴吹義雄さん=昭和57年、大阪市
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南海時代の穴吹義雄氏
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84年5月3日、近鉄を破り三塁側ベンチ前で両手を高々とあげファンの声援にこたえる南海・穴吹義雄監督
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98年10月、南海の本拠地だった大阪球場のサヨナライベントでファンにサインする穴吹義雄氏
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プロ野球の南海(現ソフトバンク)で選手として活躍し、監督も務めた穴吹義雄(あなぶき・よしお)氏が敗血症のため、7月31日に亡くなっていたことが3日、分かった。85歳だった。
南海入団時の複数球団による争奪戦は小説の題材となり、映画化もされた。サンケイスポーツの専属評論家としても活躍。晩年は少年野球の指導にも尽力した。昭和の球史を彩った重鎮がまた一人、永遠の眠りに就いた。

昭和の高度成長期、プロ野球の新人獲得がまだ自由競争だった時代。その象徴だった穴吹さんが猛暑の中、旅立った。

2001年までサンケイスポーツの専属評論家として健筆をふるい、その後は「大阪南海ボーイズ」で少年野球の指導に専念。
多くの有望選手を高校に送り出したが、06年に脳梗塞を患い、15年の年末には脳内出血で堺市内の自宅前で倒れ、療養生活が続いていた。

亡くなった7月31日は「血圧が測れないほど低下する危険な状態」(関係者)で病院に向かったが、診察前に眠るように息を引き取った。
会話ができなくなり、面会には応じていなかった。体重も60キロまで落ちていたが、握力は最期まで強いままだったという。

大卒の初任給が約1万円だった1956年に契約金700万円で南海入り。
中大で2季連続の首位打者に輝いた穴吹さんの札束攻勢での争奪戦は小説「あなた買います」(小野稔著)の題材になり、映画化もされた。

南海時代、穴吹さんが輝いたのはむしろ指導者としてで、特に2軍監督(73〜82年)として山本和範、定岡智秋、河埜敬幸らの打撃を1軍レベルに引き上げた。

現役13年間の通算成績は打率・264、89本塁打、404打点。デビューは56年の開幕戦(対阪急)で史上初の新人サヨナラ弾と華々しかった。一方、4番定着は60年の1シーズン限りだった。

ブレイザーの後任として務めた1軍監督も83年から3年間で5、5、6位と低迷。
91、92年には買収先のダイエーの編成部長に就き、チームづくりの礎を築いた。「外国人選手には不思議といろんなカネがかかってなあ」。札束攻勢で騒がれた穴吹氏はフロント時代をこう振り返っていた。

集大成だった少年野球の指導。名誉会長の肩書もそのままだった。猛暑の最中の訃報で、通夜と葬儀はごく近い家族のみで執り行われた。
穴吹道場から巣立った教え子らも知らないうちに…。親族関係者は後日、お別れの場を設けることを検討している。