「自分の年齢を考えたら、そんなに長い時間は残されていない。
さらに半年間も、韓国にとどまることはできないな、と。それで、鳥栖への復帰を相談しました。
他のクラブでプレーする選択肢はなかったですね。
鳥栖の降格を避けたい、という気持ちがありましたし、そこで必要とされるなら、と」

韓国での試合は、5月21日、ロシアW杯による中断期間前が最後になった。
ACLで敗れ、つなげていた気持ちも切れていた。6月には、鳥栖のイタリアキャンプに帯同することが決まった。

「自分としては、結果を残せず戻ってきたことに、悶々とするところはありました。直感的に決めるべきじゃなかったなと。
でも、嫁が『若いときから一度は海外でやりたいって言って、どんなものかわかっただけでもよかったじゃない。
行かずにキャリアが終わっていたら、後悔していたかもよ』と言ってくれて、それもそうだなと。
ACLを経験できましたし、思いやりや気遣いという、日本人のよさを再認識できたのもよかったです」

豊田はそう言って腕を組んだ。消化不良の想いは残っている。
しかし、得たものがないわけではない。
ひとりのプロ選手として鷹揚(おうよう)に構え、試合に向き合えるようになったという。

「韓国の選手は、食生活はめちゃくちゃだし、練習もかなりゆるい感じ。鳥栖のほうが断然きついですよ。
ただ、韓国の選手は本番に強いんです。

その点、自分は少し思いつめすぎていた。
それでがんじがらめになっていたんじゃないか、と思うようになりました。
手を抜くのとは違うけど、うまく割り切って、リラックスしてサッカーに取り組めるようになりましたね」

豊田はいつも敗北や失敗からも学び、這い上がってきた。
北京五輪ではチーム唯一の得点を挙げたものの、その後はJ2の鳥栖に流れ、その鳥栖をJ1に昇格させ、クラブ史上初の日本代表選手にも選ばれた。
ブラジルW杯では本大会のメンバーから外れるも、2015年のアジアカップには出場した。

「もう、時代は違います。新しく変わるほうに身を委ねるのが楽なんですよ。
ただ、自分はいいときも悪いときも、このチームでやってきたので」

豊田はそう言うと、テーブルの上を片付け、布巾できれいに拭いた。

「トーレスには積極的に話しかけています。
黙々と練習する選手で、なんか自分と共通する性格なんじゃないかなと。もっと英語がうまくなりたいですね!」

そう語る鳥栖の英雄は、今をたくましく生きている。