スポーツ全盛の現代社会にあって、勝利至上主義的なありように警鐘を鳴らす向きが顕著になってきている。スポーツの醍醐味は、選手を取り囲む不確実性に抗(あらが)い、選手自らの努力で確信をつくり出す過程にある。勝敗の結果や到達点でなく、課題を見出し困難に立ち向かう姿にこそ、スポーツの意義があるのではないだろうか。

 そんなスポーツの意義を再認識させてくれるような選手が、神宮の杜でひたむきにプレーしている。東京大学野球部3年の辻居新平(外野手)だ。

昨年秋のリーグ戦で打率.308、1本塁打、6打点と活躍した東大・辻居新平
 177センチ、80キロ。打席に入ると、一見、4番打者かと見間違えてしまうようなどっしりとした力量感がみなぎる。一発長打を予感させる豪快なフルスイングで、この春頃からバックネット裏のプロスカウト陣からも大きな注目を集める選手となった。某球団のスカウトはこう期待を寄せる。

「打撃に持ち味があり、トップバッターにしては長打力のある意外性を持った選手。俊足、強肩、強打と、身体能力が高い。秋季リーグ戦の成績いかんでは、来年のドラフト候補に挙がる可能性がある」

 レギュラーポジションを獲得した昨年秋のリーグ戦は、打率.308、1本塁打、6打点と結果を残した。そしてこの春、さらなる飛躍を目指してリーグ戦に臨んだ。

 明治大戦で3年生エースの森下暢仁(まさと)から先頭本塁打を放つと、一気にヒットを量産。昨年秋の結果が、決してマグレでなかったことを証明した。

 だが、リーグ戦終盤に差しかかるにつれ、バットが湿りがちになり、最終的に打率.231まで下げてしまった。

「明治大戦で調子を上げたものの、4カード目の法政大戦から相手バッテリーに徹底マークされるようになり、厳しいコースを攻められ、思うようなバッティングをさせてもらえませんでした。僕はプルヒッターなので三遊間の内野安打などレフト方向の打球が多い反面、ライト方向への打球が極端に少ない。その分、相手バッテリーも配球しやすいのかなと反省しています。春のリーグ戦を自己採点するなら、50点ぐらい。チームにも迷惑をかけたし、打率も下げましたから……」

野球との出会いは、小学2年生のとき。辻居は4人兄弟の末っ子で、10歳上に長男、8歳上に次男、5歳上に三男がいる。その長男が神奈川県内屈指の進学校である栄光学園高校の軟式野球部に在籍。高校3年のときに関東大会に進出し、優勝投手に輝いたのである。その雄姿を観客席から目の当たりにして以来、野球に強い関心を抱くようになった。

 父親の勧めもあって、地元の少年野球チーム『緑園(りょくえん)ラービー』に入団。そこで才能を開花させる。小学6年生の春、相鉄沿線大会に「4番・エース」としてチームを優勝に導き、大会MVPにも選ばれた。

「緑園ラービーは地元の強豪チームで、僕らの代は好選手が揃い、今でも大学でプレーする仲間がいます。大会で優勝したものの、そこまで野球にのめり込むこともありませんでした。それよりも、父親と一番上の兄が通った栄光学園に憧れていました。中学受験(栄光学園中学)の勉強に専念するために、この大会後にチームを辞めました」

 1年間、野球から離れて受験勉強に励み、見事、栄光学園に合格。辻居は迷うことなく軟式野球部に入部した。ちなみに、中高一貫の栄光学園は軟式野球部はあるが硬式野球部は存在しない。

「聞くところによると、学校創立当初は硬式野球部があったそうです。ある日、野球にあまり縁のないスペイン出身の校長に、硬球が直撃するアクシデントが起きたそうなんです。以来、その方が『野球は野蛮なスポーツ』と見なすようになって、硬式から軟式に代わったらしいです」

 入学後も辻居は学業を優先させながら、野球に励んだ。高校2年で頭角を現し、「4番・エース」の座をつかむ。

 軟式ボールは、力が加わる瞬間に変形したり、運動エネルギーがゴムに吸収されたりして、パワーロスを発生させる。そのため、硬球よりもスピードが出にくいと言われている。それでも辻居は、高校3年時には最速133キロを投げるまでに成長を遂げた。辻居が当時を懐かしむ。

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