1997年11月3日、ついに会社更生法の適用を申請。証券会社としては戦後初の倒産であった。積極経営によって「嵐に窓を開ける」ことになった三洋証券はバブル崩壊に伴う証券不況に全く抗うことができずに消えていった。この倒産劇自体はそれほど世間の注目を浴びたわけではなかったが、その後の金融市場に与えた影響は計り知れないものがある。

1997年11月4日に三洋へ裁判所が資産保全を命令し、インターバンクのコール市場と債券貸借市場で戦後初の債務不履行が発生し、コール市場が疑心暗鬼・大混乱に陥った。

この信用収縮の余波を受け、綱渡りで運転資金をやりくりしていた都市銀行の北海道拓殖銀行が11月17日に経営破綻、11月24日に四大証券の一角で「飛ばし」による多額の簿外債務を抱えていた山一證券が自主廃業し、その2日後の11月26日には拓銀同様に綱渡りで資金調達していた徳陽シティ銀行も経営破綻し、翌年の日本長期信用銀行、日本債券信用銀行などと共に金融恐慌となる。

10月31日(金曜日)に借り入れた無担保コール翌日物の返済期限である11月4日(火曜日)を待たずして、11月3日(月曜日・祝日)に三洋証券が会社更生法の適用を申請したことが、コール市場が混乱した直接の原因である。会社更生法の申請に至った経緯に、大蔵省の密室的な行政指導や、大蔵省と日銀の連携不手際がかかわっていたといわれる[1]。