1994年3月17日、旧大蔵省証券局主導の下で護送船団方式による再建九ヵ年計画が策定された。

メインバンクによる金利減免、大株主の野村證券などによる200億円の第三者割当増資引受けに加えて、奉加帳方式で生命保険会社から200億円の劣後ローンを受け、9年間かけて不良債権を償却する内容だった。本来ならこの時点で倒産していてもおかしくない切迫した財務状態であったため、全て大蔵省の意向で行われ、三洋側に経営上の主導権はなくなっていた。

しかし、三洋本体は1992年3月期に赤字に転落して以降、1997年3月期の倒産にいたるまで6期連続の赤字を計上するなど経営状態が一向に好転せず、膨大な保証債務を返済していく目途が立たず、この計画は頓挫した。

急降下した自己資本規制比率を、会計上は自己資本に参入される劣後ローンの期限延長を繰り返すことで凌いでいる状況は次第に明らかになった。免許制事業の証券業は、自己資本規制比率120%を割り込むと大蔵省の業務改善命令が発令される。生保から借りた劣後ローンを自己資本に繰り入れて劣後ローンを含み表面上200%程度の自己資本規制比率を維持している三洋証券の経営を、経済各誌は誌上で不安視した。

1997年春頃に主力銀行が保有株式の持ち合い解消へと動き始め、生保が劣後ローンの期限延長を断り「延命の中止すなわち倒産」となる時期に衆目が注意し始めた。三洋証券とは関係のない生保各社は大蔵省主導の奉加帳方式に嫌々参加させられており、焦げ付く可能性の高い劣後ローン継続に当初より否定的だった。1997年7月の交渉時に生保側は3ヶ月の延長しか認めず、「早急の新再建案の提示」の条件付という、事実上の最後通告を突きつけた。

自力再建が困難と考えた大蔵省は次策として国際証券による救済合併を画策し、国際証券側もこれに条件付で応ずる予定であったが、1997年9月26日付け産経新聞に計画が報じられ、不可能になった。

10月31日に劣後ローンの延長期限が終了し、延長交渉を続けたものの生保側は株主代表訴訟リスクに耐えられないとして延長を認めず、この時点で倒産は不可避となった。


三洋証券はオーナがバブルの頃拡大路線に突っ走ったからな
バブル前から準大手なのにCM多くて見栄っ張りな印象はあったが