松永安左エ門
(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、電力業界で活躍した実業家。 戦前に九州、近畿、中部に展開した東邦電力社長、関東の東京電力(1925年-1928年)取締役を務めた。また戦後は政府の電気事業再編成審議会会長に就任し、戦時体制で国有化された電気事業の構造改革として九電力体制の枠組みを整えた。これらの業績を通じて日本の電力業界に大きな影響を与え、「電力王」「電力の鬼」との異名を持つ。
米寿の祝いは、池田勇人内閣総理大臣だけを呼び、何もない電力中央研究所本部の屋上で行った。

葬儀も故人の遺志により一切行われず、松永家は財界人の弔問や香典・供花なども辞退している。
1964年に生存者叙勲制度が復活した際、同年4月29日付の最初の叙勲で松永は勲一等瑞宝章に内定するが、首相の池田勇人から直々に打診された松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高し、受章を拒否する。

困った池田は松永に可愛がられていた永野重雄に説得を頼み、小田原の松永邸に尋ねた永野は、松永に対して「あなたが叙勲を受けないと、生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたくてたまらない人たちに、迷惑がかかる。それに、あなたはどうせ老い先が短い。死ねばいやでも勲章を贈られる。それなら生きているうちにもらった方が人助けにもなりますよ」と迫った。松永は不本意ながら叙勲を受けることは了承したものの、勲章授与式を欠席した[13]。

その後松永は『栄典の類は反吐が出るほど嫌いだ』として、死後を含め全ての栄典を受け取らないことを公言する。このため、松永が逝去した際にその訃報を受けた当時の佐藤栄作内閣が政府による叙位叙勲を即日決定したものの、遺族は松永の遺志を尊重し、一切の栄誉・栄典について辞退し