最高の援護射撃

 クラークが指摘した通り、中曽根政権には発足当初から田中派の濃い影が差していた。閣僚20人の内、
女房役の官房長官を初め大蔵や建設、厚生などじつに6人を田中派が占め、それをマスコミや野党は
「田中曽根内閣」、「直角内閣」などと揶揄した。

 こうして中曽根がワシントンに到着する前から米国は自国内での彼の弱み、性格を分析し終えていた。
ぎくしゃくした日米同盟を軌道に戻そうとする中曽根はまさに待ち望んだ指導者だが、その政治基盤は
いかにも頼りない。「ロン・ヤス」関係は田中派を牽制するため、レーガンから贈られた最高の援護射撃だった。

 こうして日米首脳には強力なコミュニケーション・チャンネルが生まれたが、それが遺憾なく効果を発揮
したのが大韓航空機撃墜事件である。その後も2人は家族ぐるみの付き合いが続いたが、その中で中曽根を
見舞った最初の挫折が総選挙での敗北だった。

 83年12月18日に行われた総選挙で自民党は解散前の勢力を大きく減らして250議席となり、過半数に
届かない大敗を喫した。原因の一つは、選挙前のロッキード事件での田中元総理への有罪判決だが、中曽根は
新自由クラブとの連立で政権を維持させる。この選挙から4日後、NSCのシグールが上司のロバート・
マクファーレン補佐官に覚書を送っていた。

「この選挙結果は幾つもの点で残念だったが、最も重要なのは党総裁として中曽根の地位が弱体化し、自民党の
国会運営がより困難になった事である。しかし、その結果を誇張してはならず、できるだけ客観的に評価すべきである」