そのあげている個所はソロモンの箴言一二の一〇、ジーラハ七の二四、詩編一四七の九、一〇四の一四、
ヨブ記三九の四一、マタイ一〇の二九であるが、これはだれもその個所をあけて見ないだろうということ
を当てにした一種の「敬虔な嘘」にすぎないのだ。ただ非常に有名な最初の個所だけは、弱いながらも、
この問題に触れたことを述べている。それ以外の個所は動物について語ってはいるけれど、動物愛護の
ことは言っていないのだ。ではその最初の個所は何と言っているか? 「正しい人はその家畜を憐れむ」
――「憐れむ!」とは、なんという言葉か! わるいことをした罪人や犯人ならば憐れむこともあろうが、
なんの罪もない忠実な動物、ときにはその主人に飯を食わせてやりながら、わずかな餌しかあたえられぬ
動物に対して「憐れむ」というのは当たらない。「憐れむ!」憐れみではなくて、公平こそ、われわれが
動物にあたえてやらねばならぬものだ、――しかしこの公平こそ、ヨーロッパ、すなわちユダヤ的悪臭に
みちみちているため、「動物は本質において人間と同じものだ」という明白・単純な真理が、一種不快な
逆説となっているこの大陸にあっては、実現されぬままにとどまっているのである。――

 動物の保護は、したがってそれを目的とする協会や警察の仕事になるわけだが、両者とも賤民ども
のあの一般的な無道な仕打ちに対しては、ほとんどお手あげのかっこうだ。なにぶんにも訴えることの
できない動物相手のことであり、百の残虐行為で見つかるのは一つあるかないかであり、とりわけその
刑罰が軽きにすぎるからである。最近イギリスでは苔刑が提案されたが、わたしには至当のことと思わ
れる。しかし、人間と動物が本質的には同一であるという熟知の事実さえ承認せず、誠実で理性的な仲
間の者が、人間を動物の当該部門に編入したり、あるいは人間がチンパンジーやオーラン・ウータンに
酷似していることを証明したりすると、それこそ躍起になって反駁したりするほど、はなはだ頑迷・愚
昧な学者どもや動物学者までいるありさまでは、何を賤民どもから期待できよう。