しかしこういう協会などは、割礼を受けない全アジアでは無用の長物の最たるものであろう。というのは
アジアでは、宗教が動物をじゅうぶんに保護し、積極的に親切に取り扱っているからで、現にその成果は
たとえばスラテの大きな家畜病院に見られる。この病院へは、キリスト教徒も回教徒もユダヤ人も病気に
かかった動物を入院させることができるが、治療がうまくいっても、まことに適切な処置だが、その動物
を返してもらえないのだ。同様にバラモン教徒や仏教徒は、自分の身に幸運が舞いこんだり、あるいは事
がうまく運んだりした場合はいつでも、「神なる汝を」などとわめきたてないで、市場に行って鳥を買
い、市門のまえでその鳥籠をあけてやるのだ。これはあらゆる宗教の信者が集まっているアストラハン
などでいくらも見る機会があることだ。またこれに類することはいくらでもある。

 これにひきくらべ、われわれのキリスト教の賤民どもが動物を遇する、あの悪逆無道ぶりを見るがい
い。彼らはまったくなんの目的もないのに、笑いながら、動物を殺したり、かたわにしたり、いじめた
りする。そして自分たちを養ってくれた稼ぎ手の馬でさえ、老齢に至っても酷使し、その鞭の下にくた
ばるまで、哀れにも骨の髄までもしゃぶるのだ。じっさい、人間は地上の悪魔で、動物たちは苦しめられ
る魂だ、と言いたいくらいだ。これこそエデンの園におけるあの任命の場面の結果なのだ。賤民どもを
おさえるには、暴力か宗教しかないのに、キリスト教は不名誉にもこの場合、われわれを見殺しにする
のだ。確かな筋から聞いた話だが、ある新教の牧師が動物保護協会から動物虐待に反対する説教をして
くれと頼まれたとき、宗教上なんの手がかりもあたえられていないので、どうしてもできないと答えた
という。この牧師は正直者だったのだ。彼の言うとおりなのだ。たいへん称讃に値するミュンヘン動物
愛護協会が一八五二年一一月二七日付で出した告示は、すばらしいねらいで聖書から「動物愛護を説
いている規定」を集めようと骨折っている。