ところで最後に、このように激しい力で性の異なった二つの個体を他のものには目もくれずたがいに
牽きあわせるものは、全種族のうちに具現されている生への意思であって、この意思が両者を生みだす
ことのできる個体のうちにおのれの目的にかなったおのれ自身の本質の客観化を予想しているのであ
る。すなわち、この個体は父親からは意思つまり性格を、母親からは知性を、両者からは体格を受け継
ぐことになる。しかしたいてい容姿は父親のほうに、体の大きさは母親のほうに似るものであって――
これは動物が雑種を生む場合に現われる法則に従っており、この法則は、胎児の大きさは子宮の大きさ
に従わねばならないということにもとづいている。人それぞれのまったく特殊な、彼にのみ固有な個性
は説明しがたいものであるが、愛しあっている二人のまったく特殊な個性的な激情もまたこれと同様で
ある。――いやそれどころか、この両者は根本においては同一であり、前者は、後者に潜在していた
ものの顕現にほかならない。まことに、両親がたがいに見染めあう――イギリスではこれをいみじく
も「たがいに思い染める」〔相手をこうと思い込む〕to fancy each otherと言っているが、―この瞬間こ
そ、新しい個体の出現する端初であり、その生命の真の跳躍点であると見るべきであり、まえにも言っ
たように、彼らの憧憬に満ちた眼がたがいに交わされ見つめあうとき、新たな生命の最初の萌芽が、も
ちろんこれもすべての萌芽と同様にたいてい踏みにじられるのであるが、生じるのである。この新たな
個体は、いわば新たな(プラトン的な)イデアである。ところで、すべてのイデアが猛烈きわまる勢い
でこの世に現象しようとあがき、因果律がそのためにこれらのイデアのすべてに配分する物質を貪婪に
つかみとるように、人間の個性というまさにこの特殊なイデアもまあ、現象界におのれを実現させよう
と猛烈きわまる勢いと貪欲さであがくのである。この貪婪さと烈しさがすなわち、将来の両親たる二人
のあいだの情熱なのである。この情熱には無数の度合いがあり、その両極端は、現世のアプロディテと
天つアプロディテとよぶこともできよう。しかしいずれにせよ、本質においてつねに同一である。