われわれはこれを、生への意思であるかいなかを
選択する自由をもったものとしか言いようがないのである。後者の場合、仏教はこれを涅槃とよんで
いるが、この言葉の由来は〔本巻の〕第四十一章の終わりの注に示しておいた。これは、およそ人間の認
識が、それがまさに人間の認識であるかぎり永久に達することのできない点である。――

 ところでわれわれがこの最後に考察した見地に立って人生の紛乱へ眼をやるならば、そこに見るの
は、すべての者が生の逼迫と困苦に忙殺され、力のかぎりをつくして無限の欲求を満足させ、さまざま
な苦悩を防ぐために努力しながら、しかもその報いとして得るものは、この困苦に満ちた個体的生存を
わずかつかのまのあいだ維持するにすぎないという情景である。しかし、そのつかのまのあいだで、こ
の紛乱のただなかでわれわれが目にするのは、愛しあう男女が慕わしげにたがいに眼と眼をかわしてい
る情景である。――しかしなぜ彼らはこのようにひそかに人目を恐れ忍びながら会わねばならないので
あろうか。――それは、この愛しあう男女は反逆者であり、これらの反逆者はさもなければやがて終焉
するこの逼迫と困苦を永続させようとひそかに努力しているのであって、彼らが妨げようと欲している
ものが、彼らと同類のものがかつて妨げようと欲したもののように、ほかならぬこの逼迫と困苦の終焉
だからである。――ただいま考察した問題は、次章でさらに論ぜられるはずである。