すなわち、この場合、彼が話すことの四分の三は、もともと彼自身
に属するものではなく、外部から取りいれられたものなのである。そうだ、わたしたちは、或る
そのような怪物が、きわめて人間らしく話しているのを聞いて、びっくりすることもしばしばあ
るのだ。
 しかも、「親しつきあい」から、さらに一歩進めて、なおも近づいていくならば、やがて、
「野獣性」が、彼の容貌から予言していた通り、「全く支配的であったことを現わす」であろう。
―それゆえ、人相を鑑定する能力を賦与されている人は、全く近づきにならなかった前に
下した―従って少しも誤りのない―鑑定判断を、よくよく尊重しなければならない。なぜなら、
或る人の顔は、直截に、その人が何物であるかを言い表しているからである。そして、もしも、
それがわたしたちを欺くならば、欺かれることは、容貌の罪ではなくて、わたしたち自身に責任
があるのだ。ところで、或る人の言葉は、単に、その人の考えていることだけを言うか、いや、
それよりも往々にして、ただ自分の学んだことばかりを語り、さらに進んでは、何かしら考え
ているような振りをして、喋っているのに過ぎないことさえある。そのうえ、なお、次のような
ことも起きる。すなわち、わたしたちは、みずから或る人と話すとき、もしくは、彼が他の人に
話しているのを聞くときにでも、とかく、その人の真の人相を見のがしてしまうのである。これ
は、わたしたちが、主要構成基質―つまり、そのまま与えられたもの―としての人相を、そっち
のけにして、もっぱら、顔面に現われる感情の判断に関する方面、すなわち、談話の際における
その人の表情の動きばかり、気を取られているからである。しかし、この場合、その人は、よ
い顔ばかりを外部に向けるように心がけているものなのだ。