た繰り返すようだが、かかる印象を、純粋に客観的に、か
つ、誤りなく受けいれるためには、その人とほんの少しでも関係があってはならない、そのうえ、
出来ることならあ、その人と、一度も話し合わないことが必要である。というのは、どんな会話で
あっても、言葉を交わすというだけで、すでに、双方を或る程度まで親しくする、つまり、或る
種の因縁を導き入れ、相互の主観的な関係が生ずる、と同時に、この関係によって、把握の客観
性は傷つけられてしまう。そのうえ、だれしも相手から尊敬されたいとか友情を得たいとか努め
るものだし、観察されていると思えば、その人は、すぐさま、すでに自分で心得ている一切の偽
装術を応用するようになり、その顔つきによって善人ぶるやら、へつらうやらして、わたしたち
を惑わすであろうから、初めて見たときには、はっきりと現われていたものも、やがて、もはや
判明せぬようになってしまうのだ。こういった見地からすると、一般に、「たいがいの人は、く
わしく知り合うほど、わたしたちをだますものだ」というほうが、正しかろう。しかも、後にな
って、悪い状況が現われてくると、おおむね、初めて見たときに下した判断が、その正しさを獲得
し、また、往々にして、その判断が嘲笑的にその正しさを主張する。そして、「親しいつきあい」
が、逆に、すぐさま、敵対しあう関係となり、同時に、親しくつきあうことによって人々は得る
ところがあるという説は、認められないことになってしまう。だが、親しくつきあえば得るとこ
ろがあるといわれることの、もう一つ月の原因は、初めて会った時に、わたしたちに警戒の念を
起こさせた人物も、話し合ってみると、もはや、単に、彼の独自な本質や性格が表われるばかり
でなく、彼の有する教義も現われてくる、言いなおすと、彼が実際に天性によって具備している
ものばかりでなくて、彼自身が全人類の共有財産から自分のものにしてしまったものまで現われ
てくるということに存する。