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 自分自身の経験には、完全に確実できわめて独特なものであるという長所があり、この長所は、この
ような経験の範囲が限られたものでありそこに示される実例が周知のものではないということから生ず
る不利な点を補って余りがある。そこでわたしは、すべての人にそれぞれまず自分の経験に訴えるよう
に薦めたい。まず第一に、自分自身を観察し、自分の好悪の念〔傾向性〕や激情、精確上の欠点や弱点、
また悪徳を、それにもし自分にそれがあれば長所や美徳をもみずから認め、つぎに自分の父親を顧みる
がよい。そうすればかならず、これらの性格上の特徴を父親にも認めるであろう。ところが母親を見る
と性格がまったく違っており、母親と道徳的に一致するものはきわめてまれである。つまりこの一致は、
両親の性格がたまたま等しいという特殊な事情によってのみ生ずるのである。たとえば、こういう検査
を、怒りっぽいとか、忍耐、貪欲、あるいは浪費とか、淫欲、暴飲暴食癖、賭博癖、酷薄、あるいは慈
悲とか正直、あるいは欺瞞とか高慢、あるいは愛想よさとか勇気、あるいは臆病とか温和、あるいはけ
んか好きとか協調性、あるいは怨みっぽい等々について行なってみることだ。つぎにわれわれがその人
の性格と両親をよく知っているすべての人びとに同じ検査を行なってみればよい。正確に判断し、注意
深く真面目にこれを行なえば、われわれの主張はかならず確証されるであろう。たとえば、虚言癖はか
なり多くの人に固有な独特なものであるが、これも兄弟二人に同じように存在することがわかる。それ
は、彼らがこの癖を父親から受け継いだからである。したがって『詐欺師とその息子』という喜劇も心
理学的に正当なことである。――しかしこの場合二つのやむをえない制限のあることは銘記しておかね
ばなるまい。この制限を逃げ口上だと言うなら、それは明らかな曲解以外のなにものでもなかろう。す
なわちまず第一に、父親というものはつねに不確かである、ということである。父親との身体上の相似
が決定的である場合にのみ、この制限は除かれるが、表面的な相似では不十分である。