なぜ「小室圭さんは、いくら叩いても構わない」風潮が生まれたのか
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190221-00059940-gendaibiz-bus_all

根深い「男尊女卑」のあらわれ
 「これからは多様性の時代だ」とか「男女平等の時代だ」といったスローガンを貫徹するのであれば、これまで皇族方を妻として迎えた男性たちが持ちあわせていたような
「経済的・社会的基盤」や「男としての甲斐性」をもたない小室さんのような人物であっても、ご本人たちが望むならば皇族と結婚できるべきだろう。祝福されこそすれ、
ことさら反対されたり批判されたりする理由はないはずだ。

 しかし、現状はそうなっていない。そこから透けて見えるのは、ひとことで言えば、「甲斐性のない男性は包摂しない」という、私たちの社会が抱える本音ではないだろうか。

 「甲斐性のない男性は包摂しない」という暗黙の社会的合意が消えないかぎり、多くの男性は苛烈な競争に身を投じ続け、学校や会社などで他人を蹴落としてでも優位に
立とうとするだろうし、また多くの女性は、そうして勝利の果実を得た男性をより積極的に選好することをやめられないだろう。

 男女問わず、多くの人が選んだ均衡として「男女不平等」な社会が実現してしまうのだ。

 執拗な小室さんへのバッシング、彼の「弱さ」やある種の「至らなさ」を「人として治しようのない欠陥」であるかのように批判するさまは、この社会全体が「男尊女卑」を
強固に内面化していることの証左であるように思える。

 つまり、こういうことだ。日本社会に蔓延する「男尊女卑」の問題の根源には「男性が女性を不当に抑圧している」というよりもむしろ、男女どちらもが「強くて頼りがい
のある男性を選好し、また同時に弱い男性をさげすむ」という風潮が潜んでいるーー。