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     r ! ヽ._   _, -' .r'::::::::::::;!:::ヽ、    
    /::::::´:〉- 二  `/::::::::::::::/::::::::::::::ヽ、    1788ダンツィヒ〜1860フランクフルト
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 ――では、恋をしている男が全身全霊を捧げてみずから選んだ
女の眼つきに執心し、彼女のためにいかなる犠牲を捧げてもあえて悔いないのはなぜであるか。――そ
れは、彼女を求めるのは、彼の不滅の部分であり、なんであれそれ以外のものを求めるのはつねに、や
がては滅びゆくべき部分にすぎないからである。それゆえ特定の女性に向けられた強烈な、いや、熱火
のごとく燃えさかりさえするあの要求は、われわれの本質の核心が不壊であること、また種族において
その本質が永続することにたいする直接の担保である。この永続を取るに足らぬ不十分なものと考える
のは誤っており、この誤りは、われわれが種族の永続ということを、われわれに似てはいるがいかなる
点でもわれわれと同一でないものが未来に生存することとしか考えないために生ずるのであり、またこ
のように考えるのも、われわれが外部に向けられた認識から出発し、われわれが直観的に把握する種族
の外面的な形態のみを考慮し、種族の内面的な本質を考慮しないからである。しかしこの内面的な本質
こそ、われわれ自身の意識の根底にその核心として潜むものであり、したがってこの意識そのものより
いっそう直接的でさえあり、物自体として個体化の原理より解放され、あらゆる個体のうちにありなが
ら、たとえこれらのものがたがいに併存し、あるいは継起しようとも、本来まったく同一なものなので
ある。ところでこれがすなわち生への意思であり、つまり生命と存続をかくも痛切に要求する当のもの
にほかならない。それゆえこれがつまり、死を免れたもの、死にわずらわされないものなのである。し
かしながらまた、このものも現在の状態以上には出ることができない。したがってこのものも、生命が
ある以上個体としての苦悩と死も免れないことは確実である。このものもこの苦痛と死から解放するこ
とは、生への意思の否定に保留された任務であり、この否定によって個体の意思は種族の幹から解き離
され、種族のうちに生存することを放棄するのである。そのとき個体の意思がどうなるかということに
関しては、われわれにこれを理解する概念が欠けており、いやそれどころか、われわれはこれらの概念
を得る材料をいっさい持ちあわせていないのである。 われわれはこれを、生への意思であるかいなかを
選択する自由をもったものとしか言いようがないのである。後者の場合、仏教はこれを涅槃とよんで
いるが、この言葉の由来は〔本巻の〕第四十一章の終わりの注に示しておいた。これは、およそ人間の認
識が、それがまさに人間の認識であるかぎり永久に達することのできない点である。――