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    /::::::´:〉- 二  `/::::::::::::::/::::::::::::::ヽ、    1788ダンツィヒ〜1860フランクフルト
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 しかしながら、満たされない恋の激情が悲劇的な結果に終わるだけではなく、満たされた場合も幸福
よりは不幸をまねく場合のほうが多い。というのは、この激情の要求は、当事者のその他の事情と一致
せず、それにもとづいて立てられた生活設計を破壊するため、その人間の個人的な幸福を破滅させるほ
どにこれと衝突するからである。いやそれどころか、恋愛は外的な事情と矛盾するだけではなく、自分
自身の個性とすら矛盾することがある。それは、性的な関係は別とすれば、恋する者自身が憎み、軽蔑
し、いやそれどころかおぞ気のする者にさえ恋が向けられることがあるからである。しかし種族の意思
は個体の意思よりもはるかに強く、そのため、恋する男は自分がきらっている性質にはすべて眼をつむ
り、すべてを見逃し、すべてを見そこなって、恋の相手といつまでも腐れ縁をつづける。かの妄想なる
ものがこれほど完全に彼を盲目にしているのであって、この妄想は、種族の意思が満足させられるやい
なや消失し、そのあとに残るのは、にくにくしい連れ合いだけである。非常に分別のある、いや、人並
み以上にすぐれた人物ががみがみ女や悪妻といっしょになっているのを見て、どうして彼らがこういう女を
選んだのか理解に苦しむことがしばしばあるが、これもこのことから説明がつく。だから古人も愛の神
を盲目に描いたのである。それどころか、恋におちいった男はそのために自分が一生苦しまねばならな
い花嫁の気質や性格の耐えがたい欠点を明らかに認識し痛切に感じておりながら、それでも諦めきれな
いことがある。


  おまえに罪があろうとなかろうと、
  わたしはそれを問いもせぬ、気にもせぬ。
  わたしの知っていることは、おまえが愛しいということだけだ。
  たとえおまえがなんであろうと。

というのは、根本において彼が求めているのは彼自身に関する事柄ではなく、これから生まれてくる第
三者に関する事柄だからである。ところが彼は、彼が求めているのは彼自身に関する事柄であるかのよ
うな妄想にとらわれているのである。しかしながら、おのれ自身のことを求めないというまさにこのこ
とが、いかなる場合でも偉大さのしるしであって、これが恋愛の激情にも崇高な趣を与え、これを詩の
好個の題材たらしめるのである。――最後に性愛は、相手にたいする極度の憎悪とさえ矛盾しないこと
がある。すでにプラトンがこれを羊にたいする狼の愛にたとえたのもそのためである。このようなこと
が起こるのは、激しい恋におちいった男がいかに努力し哀願しても、どうしても自分の乞いが容れられ
ないときである。

  愛しいことも愛しいが、憎いことも憎い。
                       (シェークスピア『シンビリーン』第三幕・第五場)