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    /::::::´:〉- 二  `/::::::::::::::/::::::::::::::ヽ、    1788ダンツィヒ〜1860フランクフルト
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 キリスト教がインドのいろいろな教えと一致していることを説明するために、あらゆる推測をほしい
ままにするなら、エジプトへの逃避という福音書の覚え書の根底にはなにか史実があって、イエスがイ
ンド起源の宗教をもつエジプトの僧侶たちによって教育され、彼らからインド的倫理と降化の概念を受
けいれ、のちに故国に帰ってからこれをユダヤの教義に適合させ、古い幹に接木しようと努めたのだ、
と仮定できるかもしれない。イエスは、自分が道徳的にも知的にもすぐれているという気持ちに駆られ
て、ついに自分自身を一個の降化者と見るようになり、したがって自分を「人の子」とよび、ただの人
間以上の存在であることを暗示しようとしたのではあるまいか。一般に物それ自体としての意志には全
能の力があり、それはわれわれも動物磁気やこれに類する魔術的作用などから知っているところだが、
イエスもその意志が強固で純粋であったために、この全能の力によって、いわゆる奇蹟を行なうこと、
つまり意志の形而上学的感化を使って働きかけることができたのだとさえ考えられるであろう。この場
合にもやはりエジプトの僧侶たちの教育が役に立ったのであろう。そしてこうした奇蹟のかずかずを、
のちに伝説が拡大・増大したわけであろう。

というのは、本来の奇蹟というものは、どんな場合も、自然が自分自身にあたえる一種の否認であるは
ずだからだ。ところで、パウロの主要な手紙はなんといってもほんとうのものであるにちがいないが、
そのパウロがしばらくまえに死んだばかりの人を、したがってその同時代者がたくさんまだ生きている
という状況下で、どうして大まじめに受肉して人間となった神であり、世界創造者と同じものであると
説明できたかは、そういう前提のもとで、はじめていくらかのみこめるものになる。普通ならば、この
種の、またこの程度の、まじめに考えられた神化が徐々に熟してゆくには、何世紀もかかるはずだから
だ。しかし他方ではパウロの手紙一般の真正さに対する反証を、ここから引き出してくることもできよう。

 一般にわれわれの福音書の根底には、なんらかの原典、あるいはすくなくともイエス自身の時代と環
境に由来する断片ぐらいはあったと思われる。わたしがこういうことを推定するのは、世界の終末がお
とずれて、主なる神が雲のなかに輝かしく再臨されるという、はなはだ不快な予言が行なわれており、
しかもそれは、この約束に立ち会った二、三の人びとがまだ生きているうちに実現するはずになってい
た点からなのだ。ところがこの約束がいつまでたっても果たされなかったことは、じつに困った事情
で、後世になって物議をかもしただけでなく、すでにパウロやペテロも困りぬいていたのだ。このこと
はライマールスのすぐれた著書『イエスとその使徒たちの目的について』第四二節から第四四節にかけ
て詳論されているところである。さてもし福音書が約百年もたってから、当時存した記録もなしに著作
されたとしたら、それが実現しないことが不快にもすでに明白になっていたこの種の予言を福音書のな
かにもちこまないような作者たちは気をつけただろうと推定されるのである。同様に、ライマールスが明
敏にも使徒たちの最初の体系と名づけているものにあたるあの個所を福音書に挿入することもなかった
であろう。この体系に従えば、イエスは彼ら使徒たちにとって、ただ俗世における一介のユダヤ人解放
者にすぎなかったのだ。