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コンゴ統治
手を切り落とされるコンゴ人を尻目にコンゴで儲けるレオポルド2世を批判した風刺画

こうして創られたのがレオポルド2世の私領「コンゴ自由国」であった。ベルギー議会は相変わらず
植民地支配に関心がなく、「コンゴ統治はベルギー国家とは関係なく、レオポルド2世の私的行
為として行われているのであるから、ベルギーの国費をコンゴ統治に使ってはならない」という条件
のもとにレオポルド2世のコンゴ統治を承認した[32][33]。

レオポルド2世はベルギー本国では立憲君主として憲法上の縛りがあるが、私領であるコンゴでは
そのような権力の制限は一切なく、専制君主として君臨した。コンゴ統治を委ねられた直後の
レオポルド2世は巨額の私費や国内外の投資家の投資を募ってコンゴの近代化を推進した。
ベルギー本国の75倍もの国土があり、かつジャングルや山岳のせいで踏破が困難なコンゴの地に
マタディ・レオポルドヴィル鉄道をはじめとする近代的な鉄道網を敷設した[注釈 2]。

また他の列強とも協力のうえで要塞を建設し、黒人を捕らえて売却しようと企むアラブ人奴隷商
人の取り締まりを強化した[32][37]。レオポルド2世はこうした活動のために私財のほとんどをつぎ
込んでおり、自らの生活も切り詰めなければならないほどだった[32]。

だがまもなくレオポルド2世は利益の回収を最優先にするようになった。1891年と1892年の勅令
によって最も収入が期待できる象牙と天然ゴムを自分の独占事業にし、とりわけ1890年代半ば
から急速に需要が高まっていた天然ゴムの採取を急がせた。1893年まで250トン足らずだった天
然ゴムの生産量を1901年までに6000トンにまで高めさせた[38][18][37]。しかしそれは先住民
の過酷な労働の上に成り立っていた[37][39]。最も重要な資源である天然ゴムにはノルマ制が
設けられ、生産量が足りない場合には手足切断などの罰が加えられた[40][41]。過酷な圧政
によってコンゴの人口は1885年にコンゴ自由国が建設された時点(3000万人)と比べて70%減
少し、900万人にまで減少したといわれる[42]。こうした残虐行為を行っていたのはレオポルド2世
の私軍である公安軍であった。この部隊は士官は白人だが、兵士はナイジェリアや西アフリカ諸国
の黒人を中心に構成されていた[43][44]。