悧巧者の眼つきは、その最も巧妙なものでさえ、天才のま
なざしと異なる所以は、前者が意志に奉仕していることの歴然たる証拠を示すのに反して、後者
はそのようなものの片影さえとどめていないというところに存するのだ。(『パレルガ・ウント・
パラリポメナ』第二巻六四ページ〔『哲学入門』第三章〕で「天才の容貌」について述べた条を
参照せられよ)―それゆえ、スクァルツァフィキィが、その著『ペトラルカ伝』のなかで、彼
がペトラルカと同時代にいたヨセフ・プリヴィウスから伝え聞いた話にもとづいて記述した逸話
は、そっくり信じてもよかろう。それによると、或る時、ペトラルカが、多くの紳士や貴族の間
に立ちまじって、ヴィスコンティの宮廷に同候していた時に、ガレアッツォ・ヴィスコンティは、
当時まだ少年であった―ミラノの第一公爵となった―息子を顧みて、その場にい合わせてい
た人々の中から、最も賢明な人を探し出せという課題を与えた。少年は、すべての人たちを、し
ばらく眺めていたが、やがて、ペトラルカの手を握って、父のもとへ連れていったので、列席者
一同は非常に驚嘆したという。そうだ。自然は、人間の中でも特に傑出している人には、その品
位の印章を、少年でさえも認め得るほど、明瞭に捺しておくものなのである。そこで、わたしは、
ふたたび、ひとりの平凡人を三十年間も、偉大なる思想家として吹聴してみいたくなったとしても、
その折には、どうぞ、ヘーゲルみたいなビヤホールの親爺然たる人相の持主を、そのために択び
出さないようにお願いする。自然は、この男の顔に、読みやすい書体で、その得意とする「平凡
人」という文字を、はっきりと記しておいてくれたではないか。