なお、これはすべて、動物が、生物としての段階をよ
り高く昇るにつれて、一層たやすく、或る唯一の場所だけを傷つけることによって、これを殺す
ことができるという事実に類似している、というよりもむしろこの事実と関連しているのだ。実
例を、蝦蟇類にとってみると、彼らの運動が鈍重で怠慢で緩慢であるがごとく、彼らは愚昧でもあ
り、と同時に、きわめて粘りづよい生活力を有っているが、これらすべての事柄は、彼らが、は
なはだわずかばかりの脳髄に対して、著しく太い脊髄と神経とをそなえていることから、説明が
つく。しかも、一般に歩行と腕の運動とは、主として、脳髄の佐用によるものである。詳しく
いえば、外部に出ている四肢でも、脳髄から神経を介して、その運動とそれらのあらゆる変更と
の―ごく微細な修正にいたるまで―支配を受けるのである。それゆえ、随意運動をすると、わた
したちは疲れを覚えるのだが、この疲労感は、ちょうど痛みの感じと同様に、その座は脳髄の中
にあるので、わたしたちが思い違いしているように、手足のうちにあるのではない。だから。疲
れると眠気を催すのである。これに反して、有機的生活の運動で、脳髄によって喚起されないも
の、すなわち、不随意運動、たとえば、心臓・肺臓などの運動は、疲れることなく継続している
のだ。さて、思考と四肢の管理とは、ともに同じ脳髄の任務であるから、個人の素質の如何に
従って、脳髄の働きかたの性格は、その両方にひとしく現われることとなり、そこで、愚鈍な人
間は、あたかも、あやつり人形のごとくに運動するが、才能豊かな人々では、あらゆる関節が、
きびきびと動くのだ。―しかしながら、精神的な特質は、態度や動作からよりも、はるかによ
く、容貌から認められる。詳しくいえば、それは、額の形と大きさ、顔のあらゆる道具の緊張と
運動、とりわけ、眼から認知される。―だが、眼にも、いろいろの種類があって、豚の眼のよ
うに、小さく鈍くぼんやり見ているのから、あらゆる中間の段階を経て、天才の光り輝き電の射
るがごとき眼にまで昇りつめる。