なお、わたしは、一般に、人相の鑑定法では、或る人間の知性的な能力のほうが、その人の道
徳的な性格よりも、はるかに、よくわかるものだということを、注意しておかなければならない。
つまり、知性的な能力は、道徳的な性格に比して、ずっと著しく外部へと滲み出てくる。それは、
ただ、顔や表情の動きに現われるのみならず、歩き方にも、さらに、すべての運動に、ごく些細
な所作にさえ、現われてくる。おそらく、だれでも、愚物か、痴呆か、才能人かは、後姿だけか
らも、判別しうるであろう。船のように鈍重な動作は、すべて、愚物の特徴だし、痴呆は、その
徴候を、あらゆる身振りに示すが、才能や思慮も、やはり同様に、動作や身振りによって認めら
れる。このことにもとづいて、ラ・ブリュイエールは「どれほど巧妙に、どれほど無造作に、ま
たどれほど気づかれぬように行なわれようとも、その中に、わたしたちの本性を示す或る挙動が
少しも現われていないことは、全く無い。頭の鈍い者は、はいるにしても、出るにしても、すわ
っても、立っても、黙っていようが、つっ立っていればなおさら、才能のある人と同じように振
る舞うことなど、とても出来はしない」と記述している。
 エルヴェシウスによると、月並みの頭脳を有つ常人は、才能ある人を見つけたり避けたりす
るために、精確かつ敏捷な本能を有っているそうだが、これも、上述のことによって、説明でき
る。もっとも、これは、いささか余談にわたるかもしれない。
 とにかく、そのような事柄のもとづくところは、まず第一に、脳髄がより大きくて、その発育
が良ければ良いほど、また、脳髄に対する比例において、脳髄と神経とが、より細ければ細いほ
ど、知性ばかりでなく、同時に、四肢の動きかたや柔順さも、それだけ増大するわけだし、何と
いっても、この場合、四肢は脳髄から、より直接に、より截然と支配され、その結果、すべてが、
より多く、ただ一本の糸によってあやつられることになり、従って、あらゆる運動のうちに、そ
の意図が精密に表わされるからである。