この事柄を形而上
学的に解釈すると、人それぞれの個性というものは、まさしく、彼の存在そのものによってとり
戻し、訂正せねばならぬものであるという考えへと立ちいたる。これに反して、心理学的な説明
だけで満足しようと欲するならば、みずからに問うてみるがよかろう、けだし、長い一生を通じ
て、心の中に、ちっぽけな、低級の、けちくさい考えや、卑しい、利己的な、羨ましがりの、間
違った、そのうえ性の悪い願望のほかには、ほとんど何物をも思い浮かべてもみなかったような
人間の顔に、果たして、どういう人相が期待されるであろうか、と。そのような願望や考えは、
それぞれに、それが今ある間は、顔面に、その表現を浮かびあがらせるし、その痕跡のすべては、
しばしば反復されることにより、時間の経過するにつれて、容貌に深い皺となって刻みつけ
られて、これをすっかり凸凹にしてしまう。だから、たいていの人は、初めて見たときに、びっく
りさせられるような容貌をしているのである。しかし、そんなような顔でも、だんだんと、慣れ
るに従って、言いかえると、その印象に対して鈍感になってしまうと、それはもはや何らの作用
をも及ぼさないようになるのだ。
 聡明な容貌は、長い歳月の間に徐々に出来あがるもので、しかも、老齢に及んで、初めて、そ
の高貴な表情に達するのであるが、若い時代の肖像画には、ただ、かかる表情のほんの片影しか
認められないということの理由は、まさしく、永続する容貌の形成過程が、特徴を示す緊張の現
われては消えながらも数限りなく反復することによって、ゆるゆると行われていくことで説明
されるだろう。また、反対に、前に述べたごとく、人が、初めて見た顔に対して、驚愕を感ずる
所以は、或る人の顔が、十分に正しい印象を与えるのは、最初の時だけであるという、前記の意
見と、ぴったり相応するのである。また繰り返すようだが、かかる印象を、純粋に客観的に、か
つ、誤りなく受けいれるためには、その人とほんの少しでも関係があってはならない、そのうえ、
出来ることならあ、その人と、一度も話し合わないことが必要である。