0001爆笑ゴリラ ★2022/03/23(水) 14:41:24.64ID:CAP_USER9
むしろ東京吉本が大きくなったのはダウンタウンのおかげだから後ろ盾になんかならん
>>625
吉本の東京進出の最初はマンションの小さな1室が事務所だったんだぞ
高須がボヤいてて松本は帰りたいばかり言ってた時代
ハマタは松本がネタ書いてる間、暇だから遊んでたけども >>628
貴乃花の事もガキのトークでなんやあのおちょぼ口とかディスってたのに
タレントになった貴乃花がDXとかに来ると敬語で接待しててね 0631名無しさん@恐縮です2022/03/25(金) 01:10:21.07ID:QY6Oh2cF0
昔は中井貴一さんを「ピッチリ横分け鼻デカ兄さん」とディスっていた松本もすっかり「スカスカ白髪の鼻デカヨボヨボジジイ」に
中井貴一さんは今でもお若くてさすがです
あだ名つけるの得意だったよなまっつん
篠原涼子に「鼻ホワイトタイガー」
松山千春に「ペプシマン」
はワロタ
>>614
志村はガキ使のトークのつまらない芸人が自分だと思って、たまたま一緒になったトイレで浜田に「あれ俺じゃないだろうな」と聞いたんだよな
本気で聞いたのかはともかく、そのあとダウンタウンはバカ殿に出て、遺書で尊敬する三人に志村けんと書いた >>627
大阪住みだった時代のダウンタウン
松本が独りホテルの部屋でネタを書いていて
疲れて外の空気を吸うために窓を開けたら
遊びに行った筈の浜田がホテルの向かいの公園で独りでツッコミの練習をしていた
「浜田ほど努力する人間を俺は知らない」(松本人志『遺書』より) >>617
昔、後輩の車からガソリン盗んで逮捕されてるだろう?
ドケチ浜田 >>581
たけしがダウンタウン、こいつらあかんという冷たい目ワロタ 吉本の幹部がダウンタウンの元マネージャーだらけなの見ればさんまとダウンタウンどちらが貢献してるか一目瞭然
さんまは、よし自分の後に繋げようとか吉本の東京都進出に繋げようとかそういう仲間意識希薄なような
すでにたけし、タモリとビック3なんて言われるような立場になりつつあったし
ダウンタウンもさんまを頼りに上京という感じでもなかったし
ダウンタウン以降はダウンタウンに乗っかって!って芸人側も吉本側も意識し出したんじゃないかなぁ
歌舞伎町の吉本の事務所の受付に吉本芸人のでっかい集合写真飾ってるけど、最前列真ん中はさんま、三枝、ダウンタウンだね
浜田の読めだったかの自伝みたいな本でさんまがダウンタウン東京こないんかアイツラ来たら盛り上がるのにみたいなこと言ってたみたいだけどな
紳助みたいに表ではあんまり吉本芸人と絡まんよな
大崎洋
[万人受けする従来の“お笑い”では駄目だと『2丁目』では半径数メートルだけに通じる笑いを目指した]
2丁目に出演する若手芸人にも、常々、『ここは花月とは違うんや。この劇場では、漫才は一切するな』と言っていました。
吉本社員でありながら、『アンチ吉本』、『アンチ花月』を標榜。
[『2丁目』を花月への登竜門とする会社に対し]『2丁目のタレントは花月を含めよそには出さない』という方針を徹底していた
三つ巴
[カウスを20年間干していた木村政雄が吉本を辞める一年前、横澤彪の画策で大崎の降格人事が発表されるも、大崎サイドの巻き返しで翌日撤回。大崎の取締役就任にも横澤は猛反対。他に反対したのが]
「木村さんです。彼は、裕章さんが、フジテレビから連れてきた、いわば、“外様の中の外様”である横澤さんを、吉本生え抜きの自分より先に専務に昇格させたことに不満を募らせていました。
しかし、その一方で、かつては自分の直属の部下だった大崎さんが、自分と入れ替わりで、東京の現場を仕切り、着実に力をつけていたことも面白くなかった。だから、大崎さんの取締役就任にも反対していたのです」
大崎さんは、裕章さんが亡くなった直後から社内外で噴き出した様々な問題に対し、自らが、“矢面”に立つことによって、社内の権力を掌握していった。これに対し、裕章さんという最大の“後ろ盾”を失った横澤[は失脚]
僕は新入社員から知ってますから。大阪で。我々のマネージャーもしたし吉本新喜劇に我々がいる頃は吉本新喜劇の担当もしてましたし。僕らはある程度、彼のキャラクターはわかってる。
大崎、岡本っていう主流、ダウンタウンさんのマネージャーをやってましたよ。だから我々はそこの、もう若い時から、“オギャー”って芸人なった時からお世話になってる人たちですよ。
そういう人たちと一緒にやってきた我々はファミリーかもしれませんけど。それは僕たちには伝わってますけど。でもやっぱり下の子らにはこれはファミリーやってゆうたかて態度でしめさないと。
頑固親父が全然会話もしない、しゃべらへん、なに考えてんのかわからへんって人が急に“俺ら家族やんけ”ってゆうたかて、それは子供には伝わらないよ。
それは亮もああなるし宮迫もああなるでしょう。
だからそこのコミュニケーションが下手やということは、吉本というお笑いの楽しい会社のトップにいるべき人ではないんじゃないかと俺は思うてもうたんや。
ルミネでパッと会った時も“みんな怖がってんで”って俺はギャグにしてましたけど(岡本社長は)“なんでなんですか、そんなことないですよ”と言いながら。
それはアドバイスというか、冗談で“みんな怖がってんで。もう来んといてくれ劇場に。雰囲気悪なるから”みたいな冗談を岡本社長に言うても“またまた〜”みたいな。
“またまた〜”って言うのはしゃあないですけど、どこかに響いてくれてたらええなと思ってたよ。“多分、ほんまにまたまたって思ってたんやな”ってゆうたかて、思ってしまいますよね。(今田耕司)
「あいつ(東野)、今の会長に腹蹴られてたんですよ」とたたみかけて司会の神田伯山と滝沢カレンを爆笑させたのだった。
「今田さんの話によれば、昔、東野さんとのWコウジでダウンタウンの生放送番組の前説と後説を担当。
スタジオを出たダウンタウンのあとをファンが追いかけまわさないように、後説で足止めをするのが2人の役目だったそうです。
そこで、Wコウジがスタジオ観覧者たちとジャンケンする段取りになったのですが、東野さんはなんともおざなりにジャンケンをしていたそう。
当時、劇場の支配人だった大崎会長は、袖から東野さんを呼び出し、腹を蹴りまくっていたとか。
それを横目で見た今田さんはそれこそ真剣にジャンケンをしたそうですから、いかにコワモテだったかが伝わってきます。
とはいえ、過去に吉本新喜劇入りを打診されて、退社を決意した東野さんを引き止めたのも大崎会長。
今ならパワハラで大問題になるところですが、2人の信頼関係あっての愛のムチでしょう」(テレビ誌ライター)
大崎会長と東野幸治のバチバチなエピソードにスタジオは大盛り上がり。
「絶対に蹴られたくない。シバかれたくない」
当時の心境を明かした今田に対して、意外な反応を示したのが滝沢カレンだった。「大崎さんは誰なんですか?」
と天然すぎる疑問を口にして、神田伯山と今田を絶句させた。
誤解を恐れず言うと若い頃から大崎氏・岡本氏とチームを組んでやってきたダウンタウンさんや今田、東野、板尾、木村祐一などは
おそらく他の数多の芸人が感じているであろう吉本の恐ろしさをあまり知らないまま、今まで来たのだろうなと思いました
それは仕方のないことで、もちろん上記の芸人の方々に不満や敵意があるわけではありません 私個人としてはみんな大切な同志だと思っています念のため (清水圭)
吉本って最近のハッピーなニュース、これと南海の山ちゃんの結婚だけですよ。あとはほぼほぼ悪いニュースばっかりだし。
ツイッターでは不平不満ある芸人がつぶやいて、今、調子いい芸人だけだんまりする。そうでしょ、千鳥とか霜降り明星何にもつぶやかん。
増谷キートンばっかりつぶやくんですよ。清水圭さんかわいそうやな〜(東野幸治)
アンチ吉本の精神の醸成
「新しい可能性の発揮のために“アンチ漫才,アンチ吉本,アンチ本社”という路線を徹底させています」と言っている。
現場で悩み,これでいいのか,もっと別の笑いはないのか,新しい芸人やタレントはいないのか?
といった探求の精神を指摘し,若手育成に力を注ぐ吉本の精神を説いているのである。
これは,正之助に対するアンチテーゼではなく,正之助の言葉を基礎にしてさらに考え抜くことを要求しているのである。
例えば,MANZAIブームを目の当たりに見てきた2丁目劇場のプロデューサーだった大崎洋は,
「富井(当時,制作部長)さんから“もっと大きな劇場作るからこれからの吉本は何をやるか考えろ”と言われたんで
,ダウンタウンを使って実験的なイベントを繰り返しました。とどのつまりは,MANZAIブームにはなかった笑い,
つまりアンチ吉本の笑いを考えようとしたんです」と言っている。
大崎がねらいとしたのは,アンチ吉本,アンチ新喜劇だったのである。
大崎が「この2丁目劇場では漫才は一切するな,と若手タレントに徹底させた」と言うように,
ここでは,手作り・自前での新人発掘,そして面白ければ即舞台,というシステムを確立したのである。
吉本興業が東京で「弱小」だった頃
「島流しもいいとこやないか」
1980年のある日、入社3年目の大崎氏は、上司に呼び出されてこう聞かれた。「おまえ、東京、行くか?」
わけもわからぬまま「はい! ありがとうございます」と即答。 あまりの即答に上司は驚きつつ、こんな説明を加えた。
「実はな、今度、吉本が東京に事務所を作るらしい。その責任者として俺が東京に行くことになった。ついては、おまえを連れて行こうと思うんだが」
この上司は、やすし・きよしらのマネジャーとして有名な木村政雄氏。この誘いに大崎氏は、再度、「はい! 分かりました!」 大きな声で返事をした。
氏の頭の中には、流行の最先端としての東京のキラキラしたイメージや「大阪弁じゃない言葉をしゃべる可愛(かわい)い女の子もぎょうさんいるはずや!」といういささかよこしまな考えがあったようだ。
もっとも、社内の空気はそんな前向きなものではなかった。数日後、上京の準備をしている大崎氏に先輩社員が話しかけてきた。
「オマエも災難やなあ」
「えっ、何のことですか?」
「東京や、東京。島流しもいいとこやないか」
その先輩によれば、左遷に近い人事なのだという。大崎氏はこう述懐している。
「当時の吉本の考え方をひとことで言えば『劇場主義』だ。70年代の演芸ブームがそうだったように、『芸人はテレビやラジオで名前と顔を売って、
劇場にお客さんを集めるもの。仕事になるなら東京でもどこでも行くが、あくまで稼ぎの本筋は大阪の劇場だ』という考えだ」
たしかに漫才はブームとなっており、その震源地は東京のテレビ局だった。しかしこのブームがどのくらいのものか、いつまで続くかはわからない。
そのため、東京にできた拠点の正式名称は「東京連絡所」。つまり単なる窓口であって、事務所ですらないという位置づけだったのだ。
大崎氏らの出発前に、当時の制作部長はこうクギを刺した。
「おまえら2人を東京に行かせるけど、あくまで連絡係として駐在させるんやから、ゆめゆめ自分たちで仕事をしたり、東京の放送局を開拓したりしようと思うなよ。
芸人に花月の出番を休ませて東京に仕事に行かせることもならん。絶対許さへん」
芸歴40年以上にもかかわらず、無能浜田は一人トークで1分以上喋れない。
単独でラジオ出れない、対談番組に一人で出れないクズ
大崎氏が後で知ったところによれば、東京進出には上層部のほとんどが反対しており、賛成したのはこの制作部長らごく限られた人だったという。
そのためか、赤坂のワンルーム事務所も、当初は会社ではなく大崎氏が個人の実印を押して保証人になったほどだったのだ。
しかしブームはことのほか拡大し、芸人たちの仕事は増える一方。当然、大崎氏の仕事も急増していく。
問題は、彼らのフォローをすべき大崎氏自身、東京の地理すら把握していないようなレベルだったことだろう。テレビ局やスタジオの場所すらわからない。
今と違ってネットで調べることもできない。頼れる仲間もいない。そのうえ怖い上司の木村氏からは「よそ様に弱みは絶対に見せるな」と
厳しく教えられていたので、同業者に聞くこともできない。当時の雰囲気を大崎氏はこう振り返っている。
「テレビ局の楽屋でも僕一人だけが浮いていた。東京のマネージャーさんたちはみんなスーツに派手なネクタイでビシッとキメている。
対する僕はヨレヨレのセーターにGジャン、おたふくソースのシミがついたようなチノパン姿。慢性の寝不足で顔はむくれあがり、髪もぼさぼさだ。(略)
周囲にいる他社のマネージャーや局の関係者、番組に出演するアイドル歌手まで、みんながクスクス笑っている気がした」
東京の放送局では大阪弁を聞くこともほとんどなかった時代だ。庶務の女性と軽口を叩くのがささやかな楽しみだったが、
東京在住の彼女たちにとっても大阪や吉本のイメージはろくなものではなかった。
「大阪弁って、なんか怖いんですよね」
「そんなことあらへん。みんな優しいんやで」
「でも、先輩が言ってたんですけど、吉本って、やっぱりみんなヤクザなんですかぁ?」
テレビ局の人間に吉本の名刺を見せただけで、プッと吹き出されてしまう。「東京のテレビ局全体がそんな空気だった」という。
この80年は、漫才ブームのきっかけとなった「花王名人劇場」「THE MANZAI」の他、同じフジテレビで「笑ってる場合ですよ!」、日本テレビでは「お笑いスター誕生!!」が始まった年でもある。
翌81年にはあの「オレたちひょうきん族」がスタートし、芸人らの東京での人気はさらに勢いを増す。この勢いを受けてようやくこの年、東京連絡所は「東京事務所」へと格上げされるのだが
、大崎氏自身は社内の事情や力学などで、82年、不本意な形で大阪に戻ることとなる。
失意を抱えた彼が大阪で出会ったのが「ひときわ汚くて目つきの悪いコンビ」、のちのダウンタウンだった――。
さんま紳助あたりが道作ってダウンタウンがその道拡張したイメージだの
どっちの貢献度が高いかというとダウンタウンだろうけどさ
>>641
世間話レベルではそういうこと言いそうだなぁさんまは
紳助はもっと露骨に政治的に計算して取り込んだり巻き込んだりしてるイメージ
さんまは良くも悪くも自分だけ、芸人はそうあるべきみたいなポリシーあるんだろうな 0655名無しさん@恐縮です2022/03/25(金) 12:33:51.60ID:ApmNRu310
0656名無しさん@恐縮です2022/03/25(金) 12:37:54.56ID:ApmNRu310
頭を叩くのは欽ちゃんのパクリ
>>653
0から1作るやつと
1を10に増やすやつと
使う才能が違うからなぁ >>653
なんというか紳助さんまは関西のイメージ止まりで真似をする対象じゃないんだよな
語彙が寄せられる話じゃないというか
ダウンタウンの話言葉は関西に限らない感じが 今の若手はダウンタウンに憧れて〜とか松本さんに憧れて〜とかいうの多いけどさんま、紳助に憧れて芸人になったってやつはあんま聞かんよな。
ボソッと一言で笑いをかっさらうスタイルが素人目に簡単そうに見えたってのもあるんだろうけど
ダウンタウン出てなかったら今の吉本の規模もこんな大所帯じゃなかったろうな。
――今でこそ全国区の吉本興業だが、当時は拠点が大阪ゆえのハンディを抱えていた。そこで、白羽の矢が立ったのが、木村さん。しかし、立ち上げ当初のスタッフはたった2人だったという。
「そもそも、東京支社の立ち上げについては、会社から正式な辞令が出たわけじゃないんです。
あるとき、林裕章(当時・専務)さんに、東京へ行こうかと誘われたからついていったら、『ここにしようか』と仰るわけです。
私が『何がですか?』と聞くと、『東京に事務所作るねん』。『誰がやるんですか?』、『おまえや』って。そりゃビックリしましたよ(笑)。
1年目の収支がどうとか、細かいことは一切言われませんでした。『赤字にはするなよ』ぐらいのものです。
当時は関西に会社の中枢が集中していましたから、「東京へ行く」イコール「左遷された」と皆には思われました。
アイツは生意気だからやっぱり、みたいにね。でも、私はそれまでも何度も仕事で東京へは来ていましたから、感覚的にチャンスだと感じていました。
最初は9坪の事務所に、スタッフは私も含めて2人。もう1人は当時、新入社員で研修中だった大崎君でした。
最初は、在京のメディアや芸能事務所からは『大阪の田舎から来やがって』と見られていたかもしれません。
でも、こちらには夢がありましたから。吉本を売りたい。有名にしたい。お笑いの地位を上げたい。それだけでした。
誰だって、自分の仕事とか関わっている環境をメジャーにしていきたいじゃないですか。
それに、アメリカに行ってもコメディアンの地位はすごく高いんです。それなのに当時の日本では俳優さんや歌手のほうが高かった。
悔しさがありましたね。だって、どちらにクリエイティビティが求められるかというと、私はお笑いのほうだと思うんですよ。
自分でネタを考えて、表現する。脚本家も演出家もいないんですから。すべて要求される分野なのに、評価が低いのはおかしいでしょう。
それに、稼げる世界にしないと若い人が目指しませんからね。ですから、お笑いの地位を上げたいなという思いはずっとありました。
ただ、吉本本社とはタレントのスケジュールをよく取り合いました。当時は劇場最優先の風潮がありましたから、
どうしても一定期間はスケジュールを舞台に拘束されるんですね。
でも、タレントにしたら東京のテレビ番組に出たらギャラはいいし、次の日からは騒いでもらえますからね。
たとえば『笑っていいとも』に出たら、行きの飛行機と、帰りの飛行機で周りの反響が変わるほどです(笑)。
舞台も大切ですが、時にはテレビのほうが芸人のためにもなる場合もあると思って、そこは本社とずいぶん戦いました」
―――東京に「骨を埋めるつもり」で打ち込んできた東京事務所での日々。その成果によって、吉本のブランド、タレントの知名度は全国に浸透した。
しかし、88年には本社に戻り、制作部次長を務めるようにとの辞令が届く。
葛藤の末、「吉本新喜劇」再生プロジェクトの指揮を執ることになった木村さんは、ついに“タブー”に踏み込んだ大胆な改革を仕掛ける。
「大阪本社に帰って来いといわれた時は悩みました。東京での業績は右肩上がり。私自身、テレビだけではなく、映画やレコードの仕事にも
携わることができて非常に充実していた時だったんです。ですから、正直『それはないやろ』と思いましたね。
ふと、大阪に帰らずに東京に残って、自分で何かを始めるかと考えもしました。でも、それと同時に、まだ吉本で完結していない気がしたんですね。
結局、大阪に戻って実情がわかったんですが、劇場のお客さんが減ってきているので本社を建て直すという役目があったわけです。
今の吉本があるのは新喜劇のおかげです。でも、そのベースとなる観客動員力が落ちていた。実は新喜劇の芸人さん達もサラリーマン化していました。
10〜20分前に会場入りして、公演の合間に麻雀やって、終わったらスナックで飲んで帰る毎日。
どう変えようかと考えていた時期に『劇団ふるさときゃらばん』(※全国各地を周ってミュージカルを上演するカンパニー)の公演を見て、これや!と思ったんです。
飛びぬけたスターは誰もいないメンバーでも、舞台から熱いものを感じ、非常に魅力的だったんですね。
そこで打った手が『新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン』でした。
マスコミを巻き込んで、このままでは大阪から新喜劇がなくなるかもしれないと触れ込んだんです。
もちろん賛否両論ありましたよ。でも、会社からは直接辞めろとは言われなかったですね。
普通は上層部に直訴する人がいるんですよ。そういう干渉は一切なかった。その結果、新喜劇メンバーには良い意味での”危機感”が生まれ、
世間も『新喜劇よ、頑張れ』というムードになったんです。よっしゃ、盛り上がってきたなという頃合で、新喜劇のメンバーと個人面談をしました。
『ベテランの芸人さんでも通行人Aという芝居があるかもしれません。それでもやってくれますか』とね。
あのまま旧態依然としたスターシステムで公演していたら、衰退していくのは目に見えていました。
ですから、いくら芸歴が長かったり、ベテラン、スターと言われていても、変化に対応できなければ、生き残ってはいけない。
こちらの方針に賛同して、それでも『やる』と答えてくれた人だけ残ってもらいました。
池乃めだか―やがて「やめよッカナ?」キャンペーンが来ます。
お客さんが新喜劇始まったら、帰ってしまう。会社としては、これではいかん、なんとかしないと、ということになったんでしょうね。
その前に肩たたきがあったんですよ。
今、自主的にやめられる方がいたら申し出てください、その方は給料の(当時は給料制)3か月分を渡します、と。
手を挙げた人は2人か3人。だからやめた人は少ないですよ。
その後、新生・新喜劇をなんばグランド花月(NGK)でやる時(1989年)に、10月に「真田十勇士」を1か月やったんですが、
その時に大ア(洋・現吉本興業社長)さんが、稽古が始まる前に、「今ここに出てもらっている人たちが、これからの新喜劇のメンバーだと思ってもらって差し支えございません」
と言われた。
そこから今田耕司とか東野幸治とか、木村祐一、ほんこん、板尾創路、石田靖、そこに吉田ヒロとか島田珠代とか若い子らと合体して新しい新喜劇が始まったんです。
その時に残っていたのは、桑原和男さん、井上竜夫さん、原哲男さんくらい。中山美保さん、末成由美さんも出てなかったね。
とりあえず大アさんが「今までのギャグは封印してください」と言うて、「真田十勇士」を1か月間やったんですけどね、どないしようもない感じで…。
11月はうめだ花月に出て、12月にNGKで「チュウチュウ忠臣蔵」が1か月あったんですよ。
その時また大アさんが稽古が始まる前に、
「ギャグは封印を解きますから、どんどんやってください。めだかさんもカニバサミやってください。」
となって、現在の新喜劇にだんだん戻ってきたんですけどね。
若い子の中には「新喜劇をやるためにNSC入ったのと違う」と言ってる、というのを聞いたこともあるけど、会社から言われたからしょうがない、という子もいた。
でも芝居の面白さに目覚めてくれた子も居る。今田君もそうやし、板尾君もいま、俳優っぽいでしょ。
でもまあ最初、半年くらいはやっぱり、ギクシャクしとったね。ただ僕らも吸収するものがあったからね。
そんなことしたらアカンということも多々あったけど、こういう形もあるのか、それもアリかみたいなことも。
向こうは向こうでおっさんらがやってる古いのを見て、こうしたら大きい笑いが取れるとかを覚えたり。
互いに吸収しあいつつ、エエ感じになってきたな〜と思ったら、みんな東京へ持って行かれたんですよ。
>>659
ダウンタウンが紳助に憧れていただろうに!クソバカダウンコヲタ!死ねクズヲタ 0666名無しさん@恐縮です2022/03/26(土) 07:54:51.89ID:wJ6Yctl90
0667名無しさん@恐縮です2022/03/26(土) 08:02:14.67ID:B9taw1rc0
>>165
マクドでなら30人来るパターンも実際にあるはあるだろな 0668名無しさん@恐縮です2022/03/26(土) 08:04:17.65ID:B9taw1rc0
>>104
それはわかる
存在否定しちゃうもんな、よくない >>24
それ見たことある
意外と礼儀正しい人なんだと感心した
深夜バラエティー共演してたころなのに 0670名無しさん@恐縮です2022/03/26(土) 08:24:50.97ID:kPcBSAJk0
いかりや長介でも志村けんを叩いたりしてないのに
0671名無しさん@恐縮です2022/03/26(土) 08:27:49.39ID:lfjuJnSs0
最初に志村叩いた時は本気でキレられてたけどな
志村もトークバラエティ慣れてなかったし
>>287
坂田ってやすしをどつき回したりしてたけどきよしには何故かキーボーと呼びながらでもほぼ敬語だぞ。 >>670
ドリフのギャラを一人占めしてたけどな。 >>670
全員集合のコントは目上の人(長さん演じる先生や母ちゃん)をおちょくるのが基本だからな >>669
そりゃ若い頃から年功序列体育会系の世界で生きてきたからな 放送コードがあっても深夜番組は“治外法権”の志村けん
志村といえば、長年、都心の繁華街にあるガールズバー通いが報じられているが、それ以外には浮いたうわさはなし。
ストレス発散の目的もあってか、番組内ではあまりにも自由過ぎる下ネタを連発していたのだ。
レギュラーコントで喫茶店と経営する父親を演じる志村。現在、娘役には美尻で知られる足立梨花が演じている。
10日深夜の放送では、娘にマッサージをおねだり。テニスボールをつかったマッサージをすすめられると、志村は
「ペニスボール?」と連呼。さすがに、足立も「放送できなくない?」と冷静にたしなめる始末。
しかし、その後、志村はさらに悪ノリ。電マを肩に当てながら、「当てるところが違うって?」と足立に意味深な視線。
さすがの足立も返しに困ってしまったのだ。
「誰も志村の出して来たアイディアにノーとは言えない。もはや完全な治外法権」(同)
共演者たちもたまったものではないようだ。